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テンポラリー通信

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2005年 11月 27日

環境アートとは

現代美術で環境アートをテーマにしている小川智彦さんの展示をする。
小川さんは2~3年ほど前フインランドに1年間留学し現在はモエレ沼の
イサムノグチ公園に勤めている若手30歳台のアーチストである。テンポラリー
スペースでも3度ほど展覧会をしている。彼と詩人の長万部在住の薩川益明さ
んとは一年間私も含め3人で札幌を様々な角度からよく歩いた。琴似街道、
ばらと街道旧石狩川を辿り江別から石狩河口まであるいは琴似川の源流か
ら盤渓等年齢20歳位づつ違う3人が珍道中よろしくそれぞれの目線でさっぽ
ろという環境を歩き廻ったのである。この経験は後に「原稿用紙 ほっつき歩く」
というタイトルの2人展となって2004年2月に結実する。薩川益明さんは詩とし
て作品化し、小川智彦さんはその詩を素材に2冊の目にみえる本と、透明なオブ
ジェとに形象化した。この時70代の薩川さんの見てきた札幌と、30代の小川さん
の見てきた札幌とがともに歩く時間を共有することで<いまみているさっぽろ>とし
て共同作業の結晶が展覧会となったのである。札幌生まれの薩川さんにとって、
現在は長万部からのタイムスリップでもあり、旭川生れで現在札幌在住の小川さ
んには、古い街道や、川を通じてみる札幌は新しい目線であり、2人は共に札幌を
媒介に<現在>を表現したのだと思う。今回の小川さんの作品は、3つの窓のよ
うに雄冬の荒波と水平線が切り取られ会場が船室のなかであるかのような気持ち
にさせられる臨場感溢れる作品である。風景と風土其処に生きている固有の時間
を感受させる優れた構成と思われる。

# by kakiten | 2005-11-27 17:40 | Comments(2)
2005年 11月 26日

及川恒平さんの<北>

フオーク歌手としてすでに知る人ぞ知る数々のヒットソングをとばしている及川恒平
さんが来た。今年の3月「歌と唄」をテーマに現代詩や現代短歌を、自らの声で唄
にする試みだった。普段活字で目で見ている詩や短歌が、声に置き換えられると
それはまた別の世界を形成する。及川さんの声は、澄んで暖かく、北の空を其処
に秘めていると思われた。例えば井上陽水が<氷の世界>と歌ってもそこに北の
氷は感じられない。彼は九州の出身で同じ澄んだ声でも及川さんとは違う。及川さ
んが極端な話傘と声にすれば、もう其処には<北>の光と空気が漂ってくる。3月
を皮切りに、6月、10月と立て続けに今年はもう3回カフエスペースとテンポラリー
スペースでコンサートを開いたが、美唄生れの釧路育ちの彼にとってこの半年は、
自らの原点<北>の確認の為の行脚でもあったように思われる。6月に出会った
札幌在住の優れた歌人糸田ともよさんとの出会いによって新たな及川ワールドが
現出しつつある。歌は唄によって開かれ、唄は歌によって開かれつつある。声とい
うものは、不思議なその直接性によって言葉を蘇らせ、解き放つ。2人の分野は
違う表現者同士の濃く深い友情は何よりの豊かさを、そのステージにもたらしてい
た。ライブとは、そうした掛け替えのない時間の共有を指すのではないだろうか。
聞く者、立ち会う人も含めて、そうした時間の生れる固有の場、空間そして人それ
は自然界の荒磯や渚、森や草原、川や澱み、渓谷と同じようにそこから立ち上っ
てくる自立した掛け替えのないものと思われる。及川さんが札幌で出会ったもの
はきっと、遠い<北>の自らの生れた空気や風の記憶、磯や川や山の保つ呼吸
だったのかも知れない。護岸化し直線化した海や川、都市や道路ではなく、記憶
の底に種子のようにアンダーマインされ、侵食していた及川恒平の<北>として。

# by kakiten | 2005-11-26 14:28 | Comments(2)
2005年 11月 25日

都市のなかの防波堤

砂浜を削り、防波堤にした為渚が荒れ、コンブもワカメ小魚も消え、荒涼とした岸
を再び元に戻す漁村のドキユメントをTVでみた。また神戸の地震のとき、かって
の渚の上にある建物がバタバタと倒れ、目にみえる土地は実はバーチヤルなもの
であり、不可視の渚にぶつかった地震波がそのうえの建物を破壊し<渚現象>と
よばれていた。大量に魚を捕るために整備された港は大きな船のためにコンクリー
トの防波堤を築き、その魚が捕れなくなって初めて荒れ果てた渚、磯の豊かさに気
がつくのは、なにも海だけの話ではなく、陸においても同様で、大量の人を入れる
為のコンクリートのマンシヨンを沢山造り、川や野や山や海を埋め、削り、ふっと気
がつくと磯や渚のような生き物としての溜まり場が消え、街としての文化、固有性
が喪われ防波堤のような建物が空を狭くしている。魚群が消えるように何らかの
原因で人口が減った時そこには荒涼とした風景が広がる。里山の豊かさも、森の
木々の静けさも、川のせせらぎもなく風だけがビル風の不機嫌さで通り抜けている
。解体されたビルの残骸は、燃えないゴミの山となり、再び山を海を川を埋め産業
廃棄物となる。このところ古いビルが1~2ヶ月もかけ解体しているのを見たが20
年以上経ったそのビルは何を残したのだろうか?同じように20年以上経った木造
の建物がありそこには建物と一緒に植えられた白樺の木がありその大きさは道行
くひとの憩いとなり目印となっている。同じ20年でも、木の保つ豊かさと、ビルの持
つ古さとは質において対照的なものである。周囲をマンシヨンに囲まれつつある現
在私は、ギヤラリーの前の白樺、銀杏の樹たちとともにそんな事を感じている。

# by kakiten | 2005-11-25 16:00 | Comments(4)