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2019年 06月 11日

石狩みちゆきー小さなランド(ⅩⅣ)

かっての原生林を囲繞した植物園の森・泉。
その原生林が続く一部高層マンション化した伊藤邸一万四千
平方メートルの庭。
さらに続く泉池偕楽園緑地跡・清華亭・広大な北大構内。
この緑の運河エルムゾーン全部を歩けはしなかったようだが、
菊井さんは植物園だけでも充分に満足したようだった。
かって石狩河口を下見に大野一雄先生を案内した時も、植物園
がスタートだった。
石狩川の支流・源流のひとつ、植物園の泉池から石狩へと
考えたからだ。
この時大野先生曰く、”私はいろんな国の植物園を見てきまし
たが、こんな植物園は無いよ。初めて見ました・・・。”と独言
のように呟いていたのを忘れない。
図らずも菊井さんも、ここから石狩へと向かった。
石狩河口近くの草叢に沈んでいた廃バス、巨大な流木、望来の
崖下の砂山等で、心から解放されている少年のような様子を後
で写真で見る事ができた。
炭坑の閉山とともに捨てられようとしていた「北上坑」の看板。
その一枚の看板が機縁となって、夕張の山奥の都市から、東北の
石巻・北上川河口へと世界が開く。
近代日本を支えた黒いダイアモンド・石炭の近代は、宮城県北上
河口の3・11以降の現代へと姿を顕わしたのだ。
近代のエネルギー産業を底辺で支え続けた炭坑夫さん、女坑夫
さんの犠牲の記憶が、坑内火災・爆発等から人を守り、犠牲者の
鎮魂の為に日本の代表的大河の名を九つの坑道につけたという。
山奥の火災・爆発の火の災難から、河口の地震・大津波の水の災難へ。
水力・石炭の坑口から石油・原子力の現代エネルギーの河口へと、
女坑夫さんは同時代の坑道を掘りつつ、今も川の流れのように歩ん
でいるのだろうか。

たった一枚の今は見捨てられた廃坑坑口の木板。
そこに記載された女坑夫と北上坑の二文字が、近代から現代への
架橋・界(さかい)の坑道を開いている。

*追悼・大野一雄の戦後「プレスリーに触れて」ー6月18日(火)
 ~30日(日)月曜定休:水・金ー午後3時閉廊

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503



# by kakiten | 2019-06-11 12:46 | Comments(0)
2019年 06月 09日

奥多摩の町からー小さなランド(XⅢ)

菅原さんの来た翌日、東京の奥多摩の町八王子から
菊井崇史さんが来た。
彼は足利・沖縄・東京共通の吉増剛造展カタログ約三百頁
を編集したひとりだ。
女坑夫さんの「北上坑」看板現わるの報に、鳥肌立つと感応
した一人である。
二泊三日の予定で、この展示を見る為に来てくれた。
ここには2014年冬の吉増展「水機(ハタ)ヲル日」以来だろうか、
繁茂に会っている人という訳ではない。
ただここ2,3年の国立近代美術館に始まる吉増展の流れで
今や欠かせない存在のひとりだ。
現時点で吉増剛造の一番近くに存在するひとり、と私は感じて
いる。
今回<女坑夫さん>記載の幻の夕張「北上坑」看板出現の報と
展示を躊躇なく電話で伝えたのには、その想いがあったからだ。
彼もまたその思いに躊躇なく応えてくれた。
6日木曜日午後、彼を迎えた北上坑・女坑夫さんの木の看板。
その周りの丈の高い白い花は、すでに小紫の彩に変色しつつ
あった。
それを含めて全体が枯れていく花々に囲まれて、北上坑の木の
看板は、どこか凛として誇らしげであった。
菊井さんは言葉なく、その様子を呑み込んでいる。
そして会場に低く流していた1995年「石狩シーツ」朗読CD
に誘われるように、奥の談話室に誘った。
もうひとつのこの名作詩の原点大野一雄の石狩河口公演「石狩
の鼻曲がり」の映像と今年出版された「舞踏言語」出版記念会
での大野慶人さんの舞踏映像を見せる為だ。
慶人さんの三分間の映像、大野一雄・慶人の石狩河口公演を
見終わって菊井さんは興奮収まらぬ様子で、次々と語り始める。
石狩河口で雌の鮭の死と生への賛歌の後大野慶人さんが白い額縁
を両手で持ち魚卵が膜を破り、初めて外の世界と接する片手と顔
の表情だけのシーン。
もうひとつの亡き父大野一雄を指人形にして、かっての敵国米国
の戦後を代表する歌手プレスリーの曲・聲に合わせて父大野一雄
と何の隔たりもなく語り合うような三分間のシーンとが、その手
の在りように於いて共通する、と言った言葉が私の心に響いた。
大野一雄の「石狩の鼻曲がり」の舞踏が顕した、生と死の亀裂・
溝・境を超える架け橋のような界(さかい)の世界。
(CONー共に)の界(さかい)が慶人さんの指人形三分間の舞い、
河中の生誕したばかりの鮭の卵が透明な膜を破る手の演技に継承
されている。
そういう指摘だった。
1992年慶人・一雄ふたり、石狩河口での生と死を繋ぐ公演。
27年後の2019年慶人ひとり、亡き父一雄を想う指人形を通し
繋ぐ世界。
産まれて十年間日米戦争に拠って隔てられていた父・子、そして
死の分断を、慶人さんの掌が鮭の卵の膜を破る手で繋いでいる。
私はハッとして、何故今まで河中の鮭の生誕のこのシーンに魅かれ
ていたかが解った気がした。

翌日私は通院治療で失礼したが、菊井崇史はМさんの車で石狩河口
へと向かった。

*北上坑・口展ー6月9日まで。am12時ーpm7時。

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503



# by kakiten | 2019-06-09 15:12 | Comments(0)
2019年 06月 07日

炭坑の町からー小さなランド(Ⅻ)

写真家の菅原英二氏が来る。
彼はかって炭鉱で栄えた内陸の町三笠市出身である。
初めてお会いした時自分が内陸の町から出て初めて見た
海が石狩だったと聞いた事がある。
そしてその時の海への道をいつか写真で撮り発表したい
と言っていた。
しかし今回6月展示中の写真展は、今は逆に遠くなっ
た故郷三笠への道を探す事がテーマとなったという。
10代の頃の海への道。
年を経て長年札幌で美術学校の教師をし、今は故郷への
道を探す旅が先になったという。
この仕事を終えもう一度故郷三笠から石狩の海への道を
撮ってみたいと言った。
石炭産業の衰退とともに、故郷は寂れ遠くなっていった。
故郷はもうかっての故郷ではない。
札幌で働き、増々故郷は遠く小さく希薄になってくる。
故郷の確認を今住む街からもう一度、<その場所が保つ
固有の記憶を書き記すように、一枚また一枚シャッター
を切った>という。
そしてそこからもう一度初めての海へと歩を進め、写真
を撮りたいという。
現代とは、さまざまな個の形でこうした心の難民の時代
でもあると私は思う、
札幌で生まれ、札幌で生きている私でも、そう思う。
心の風土・故郷が喪失し続ける時代の風景の内に今生きている。

そう思い奥の談話室で大野慶人さんが父・故大野一雄さんに
代わり出席し独り演じた吉増剛造「舞踏言語」出版記念会
の映像を見せた。
10歳の時初めて見た父の顔。
日米戦争がその10年の心の距離を生んだのだ。
父はその後世界の舞踏家として、青年時代の叶わなかった夢
を追い続ける。
同じ舞踏家の道を選んだ慶人さんは、生涯父さんと呼ぶ事
が遠かったという。
その慶人さんが偉大な父の死後初めて、父を形どった指人形
とともに、かっての敵国米国の戦後ポップスのスター
エルベス・プレスリーの「好きにならずにいられない」に乗
せて踊るのだ。
幼い時父は遠く、長じて舞踏の大先輩として師匠であり、
百余歳での死後は、世界の大野として遠く世界中の人に
慕われ子として内外の訪問者に応待し、慶人さんにとって
父は死後も遠く高い位置の存在だっただろう。
しかし父を象った指人形はもう自分の身体の一部となって、
プレスリーの唄聲とともに父子は一体となって、ふたりの
長い時の距離を解消していた。
この僅か3分間の映像を見た途端、菅原さんの眼から涙が
迸る様に流れ出ていた。
一緒にいた美術家の教え子鈴木果澄さんが仰天して見ている。

1991年の野外公演「石狩の鼻曲がり」以降、大野一雄は
この曲を稽古場でよく使っていたという。
過酷な日米戦争の現場で幾人もの戦友を亡くし、その敵国
の曲・詞を恩讐を超え愛した大野一雄の戦後・プレスリー。
そこに人間の本当の心の故郷を菅原さんは敏感に感じ取って
いたに違いない。
この奇跡の三分間の独演に、慶人さんの遠く長い父と子の距離
が夢のように消えて、純粋なふたりだけの時間となっていたのだ。

 川が海へと確実に注ぐように
 流れに身をゆだねる時もある
 手をとって、さあこの人生を捧げよう

一雄&慶人・・・。
一雄&プレスリー。

国を超え、人種を超え、親子の時の溝・舞踏の相違を超え、
人間の真の心の故郷が慶人さんの掌の内に拓いていた。
その開かれた本質が、菅原さんの遠く小さくなった故郷を思う
気持ちの深処を撃ったのだと思う。
「北上坑」という今は閉じられた坑口の看板から、山と海への
深い個の回路が開いて、生と死の間、父と子の間、日米という
国家の間、そして都会と故郷の間を何かが流れていた。

この小さな展示は、大きな深度を発しつつある。

*「北上坑・口」展ー6月9日まで。
 am12時ーpm7時:月曜定休;水・金午後3時閉廊。

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503




# by kakiten | 2019-06-07 12:39 | Comments(0)
2019年 06月 02日

3・11以降の地平ー小さなランド(Ⅺ)

北上坑の板看板を囲繞する丈の高い穂のような白い花が、
白から薄紫へ変わってきた。
静かに枯れが進行している。
それはそれで良い・・・。

来週この展示を見る為に二泊三日の休みを取り、駆け
付けてくれる東京のk氏。
足利、沖縄、東京共通の分厚い吉増展図録を編集した
熱い男だ。
自らも吉増さんの1400頁弱の大冊に負けず345頁
の渾身の長編詩集を出版した詩人でもある。
「北上坑」看板と女坑夫さんの私の話を聞いて、無理くり
休みを作り跳んでくるのだ。
逢えばきっと濃い濃密な時間が沸き立つように流れるだろう。
そしてもうひとり写真家のY氏も、鳥肌が立つ・・と語り
熱い気持ちを伝えてくれた。
彼は2011年から2012年の一年間吉増さんの誕生日
の2月22日に因み、毎月22日吉増さんを撮影し記録した
写真家である。
その写真記録は大冊「火の刺繍」に収録されている。
この現在の吉増剛造に最も近いふたりが、熱く燃えてくれた
だけでも今展示の意味は深いと私は思う。

坑内爆発事故で犠牲となった多くの女坑夫、男坑夫さんたち。
その火の災難に水の象徴大河の名を坑道につけて、鎮魂と安全
を祈ったという坑口の看板。
その近代の奥地の山の石炭の坑道が、北上河口の3・11
の大津波の水の災害地へ女坑夫さんと道行きして附いて
いく。
そんな不思議な関係が見える。

2011年12月「石狩河口 坐る ふたたび」は、以後毎年
変遷を重ね深まり、「水機(ミズハタ)ヲル日」から「怪物君」
を経て、「火の刺繍」まできたのだ。
怪物、水と火。
そして今年北上河口へ。
吉増剛造の背中に女坑夫さんの織姫のような舞い衣が見える
ような気がする。
幻のように顕れた北上坑の板看板は、女坑夫の記載を伴って
1994年初夏の「石狩シーツ」を近代から現代へと敷いて
3.11以降の現代へ導いている。

*「北上坑・口」展ー6月9日まで。
 am12時ーpm7時:月曜定休;水・金午後3時閉廊。
*大野一雄追悼「プレスリーの戦後」-6月18日―30日

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
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# by kakiten | 2019-06-02 11:34 | Comments(0)
2019年 05月 30日

石狩―夕張ー北上川―小さなランド(Ⅹ)

声が若い・・。
吉増剛造の1994年録音CD「石狩シーツ」朗読。
昨年録画の札幌国際芸術祭参加のDVD「石狩シーツ」
朗読も聞いてみたが、これは映像と共に見た方がいい。
そしてこのふたつの石狩には、四半世紀の時が流れても
いる。
今年夏、北上河口で詩人の家を立ち上げ公開制作を試
みる吉増剛造3・11現場での挑戦。

1994年「石狩河口 坐る」。
          |
2011年「石狩河口 坐る ふたたび」
2012年「ノート君」13年「怪物君」14年「水機ヲル日」
15年「怪物君 歌垣」16年「聲の間」17年「涯ノ詩聲」
2018年~火の刺繍
そして2019年「北上河口 坐る」に通底するように、
今「女坑夫さん」が夕張・北上坑口から立ち顕れた。
蒸気機関車に象徴される近代の主要エネルギー・石炭。
夕張の山奥、近代の坑口の底から、現代の石油と原子力の
岸辺へ。
近代と現代の境目の坑口へと女坑夫さんは、<火の刺繍>
となって顕れてきたのだろうか。

多くの坑内爆発・火の犠牲者の魂を鎮める為、九つの坑道に
名付けられたという全国九つの大河の名。
そのひとつの坑口にかって設置されていた北上坑の看板は、
今も女坑夫の存在を語り掛け、「石狩シーツ」の声を聞い
ている。
2011年12月「石狩河口・坐る ふたたび」は、2014年
「水機(ミズハタ)ヲル日」を経て2018年「火ノ刺繍」まで
女坑夫さんの近代から現代への<水>と<火>の坑道でもあった
のではないだろうか・・・。

*「北上坑・口」展ー5月28日ー8月9日am12時ーpm7時:月曜定休
 ;水・金曜日午後3時閉廊。
*大野一雄追悼「プレスリーの戦後」-6月18日―30日

 テンポラリ―スペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503



# by kakiten | 2019-05-30 14:32 | Comments(0)
2019年 05月 28日

「北上坑・口」展始まるー小さなランド(Ⅸ)

こんもりとした花の小さな山。
その中に「北上坑」の看板が浮かぶ。
この看板を赤い鉛筆で摺り取った上木さんの写本も
背後の壁に並べた。
花の枝、葉、細い茎などで隠れた北上坑の説明文が
この写本で読み取る事ができる。
その横に前回展示した八木保次さんの緑の抽象画を、
伸子さんの黄の油彩画は上木さんが写本を包んできた
山本作兵衛展(夕張美術館)のポスターの横にその
まま位置を変え展示した。
この山本作兵衛展の大きなポスターには、女坑夫の
坑内で働いている様子も描かれている。
さらに芳名帳の上の壁に、吉増さんの「石狩シーツ」
朗読CDポスターを貼った。
ポスター左下部には北上坑看板の写真が載っている。
私が上木和正氏に連絡をとる切っ掛けとなった写真だ。
そしてこの「石狩シーツ」朗読CDを、会場に流す。
女坑夫さんの北上河口への道行き・・。
多分東北地方から夕張炭鉱へ移住して、ひょっとしたら
北上地方、宮城県の出身だったかも知れない。
3.11石巻、北上川河口へと吉増剛造さんとともに、
石狩河口ー夕張川源流域、そして北上川河口へと、日本
の近代を遍歴していくのかも知れない。

ここは今、女坑夫さんの、ふたたびのヴァージンロード
新たな出発を祝す場。
坑内爆発という火の災害を鎮める為名付けられた「北上坑」。
その大河の名を持つ九つの坑道に石狩坑の名もあるという。
近代のエネルギーを担った石炭産業。
その底辺を支えた坑夫たち。
東日本大震災の地震・津波という水難。
そして石炭に代わりつつあった原子力発電事故、
その現代の3・11被災地へ、北上川河口へと、女坑夫さん
が道行きするような気がしてならない。


*「北上坑・口」展ー5月28日ー6月9日
 am12時ーpm7時:月曜定休;水・金曜日午後3時閉廊。
*追悼・大野一雄「プレスリーの戦後」展
 6月18日ー30日

 テンポラリ―スペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
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# by kakiten | 2019-05-28 14:16 | Comments(0)
2019年 05月 25日

峠ー小さなランド(Ⅷ)

夕張「北上坑」の看板は今日も白い花の中に浮かんでる。
まだ整理されていない周囲の花や草や道具類の山・・・。
見ていてふっと思い出した風景がある。
夕張の札幌側へ通じる3本の道。
その一番古い道は二股峠を越える徒歩の道。
夕張側には鹿の谷倶楽部という迎賓館があり、札幌側には
川の源流になる泉池があったという。
しかし今はゴミ処理場の塵芥の山。
三本の内二本目の道は、夕張鉄道の通った線路の道。
急斜面を上る為、機関車のスイッチバックで有名だった。
今は蒸気機関車が無くなり、線路跡はサイクリングロードに
なっていた。
三本目は現在の自動車の走るトンネル道。
この三本の道は近代から現代と三様相の変化を顕わしている
ようだ。
夕張の名の原義アイヌ語のイ・パル=ī・parーその入口
の説を取れば、正に三本の入口の道だ。
その中でも私が惹かれたのは、二股峠の塵芥道、そして真谷地
の炭鉱口山奥に見捨てられたように建っていた、大きな廃屋の
壁だけの光景だ。
二股峠の塵芥処理場のゴミの山。
それは現在の生活ゴミの山でもあり、見捨てられたかのような
飼い猫の姿もあった。
かって綺麗な水が湧き泉池ともなっていた処。
それに対して、かって大きな建築物であり、大きな風呂場もあ
る廃墟は、頑丈な壁だけが遺り、タルコフスキーの映像世界の
ようだ。
このふたつの近代と現代の廃墟の姿に、近代と現代の境目の姿
も仄見えてくる。

ふたつの廃墟の記憶が甦って、白い花に埋もれ遠い東北の北上川
を偲んでいるような、「北上坑」坑口看板板。
3・11を経た近代と現代を、その河口と坑口を繋ぐように
沈んでいる。
そこは、小さな時代のランド(郷土)となってこの場に息づいている。

*「北上川・女坑夫・坑口」展ー5月28日ー6月9日
 am12時ーpm7時:月曜定休・水、金は午後3時閉廊。

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# by kakiten | 2019-05-25 15:52 | Comments(0)
2019年 05月 23日

女坑夫さんの道ー小さなランド(Ⅶ)

美瑛から来た白い花々。
床一面がお花畑。
その中に、ふっと夕張北上坑の看板を小さな椅子を背に
置いてみた。
看板が活き返るように花の中に浮かんでいる。
女坑夫さんのヴァージンロード。
故郷の東北を遠く望みながら、花々の風に抱かれている。
こんな偶然などそうそうあるものではない・・・。
夕刻訪れた大学出版事業の指導をしている竹中英俊氏と
k氏は声を上げ感嘆している。
来週以降予定していた大野一雄追悼展を後ろに伸ばし、
北上坑の看板を主体に展示を続けたい、と思う。
1991年9月15日夕刻の石狩河口来札浜で夕日の中
心沁みる鮭の生と死、大野一雄の憧れ舞踏のアルへンチーナ
の亡霊、あの世の舞踏を見せてくれた大野一雄・慶人さん。
この舞台に立ち会い、翌年ブラジルへ客員教授として招か
れた吉増剛造は、1994年春ブラジルから傷心の帰国を
する。そして大野一雄の石狩河口近くに滞在し、夕張川を
遡上し名作「石狩シーツ」を著した。
この長編詩の最終章を飾るのが、夕張で出会ったこの看板
記載の「女坑夫の名も数多く刻まれています。」という
炭鉱犠牲者追悼の一文だ。
この一節に触発され<女坑夫さん>連呼の最終詩行が
生まれる。
吉増さんの故郷、奥多摩地方の古道・絹の道。
そこに絹を織った織姫の存在がある。
日本近代明治初期、この時期唯一といってもよい輸出品・絹
の生産を支えた女性たち。
その近代底辺・原点への回路を、石炭産業という近代の底辺・
原点に現われた<女坑夫>という記述に吉増さんは感動した
と思う。
<女坑夫>とは、吉増さんの頭脳の中では<織姫>と重なる
近代の女神・その象徴的存在なのだ。
大野一雄の舞踏を通して欧米への憧れと親和という近代の根を
知り、ブラジル滞在で地球の裏側にひっそりと蓄えられていた
日本、異国で純粋培養された遠い日本と出会い、戦後を起点と
する米国文化風土に育った自分に深い亀裂を感じたと思える。
そんな精神の流れ。
そして戦後近代の瓦解のような原発事故を含む2011年3月
11日を経て、吉本隆明という戦後文化の巨樹の根に触れ、3
・11の傷跡残る北上河口へと今夏向かいつつある。

日本近代をそれぞれの足元から見詰め直す事は、ひとり吉増
剛造だけの問題ではない。
私達個々が今さまざまな分野・領域で問われるべき現在だ。
場を失われた北上坑の看板は、その問われるべき現在の象徴
として北上河口ー織姫の近代、石狩河口ー女坑夫の近代への
扉口と見える。

*「北上坑ー女坑夫ー河口」展ー5月28日ー6月9日
*大野一雄追悼「プレスリーの戦後」-6月18日―30日

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# by kakiten | 2019-05-23 15:07 | Comments(0)
2019年 05月 21日

北上・坑口来るー小さなランド(Ⅵ)

かって夕張北上坑道口に置かれていた北上抗木彫りの
看板が今日着いた。
元夕張美術館館長上木和正氏が自宅に保管していたもの
を持参してくれたのだ。
1989年市役所在職中当時多発した炭鉱坑内火災から坑道
を守る鎮魂の願いで、国内九つの大河の名を坑道に名付け設置
したもので、上木さん自ら仕事として彫った看板という。
冬の間は雪に埋もれるので保管していたという所為か、看板
自体は今も汚れがなく凛としている。
近年美術館も廃館し坑道の保存も夕張市の衰退と同時に管理
が不足し上木さんは退職と同時にこの看板を自宅に持ち帰り
保存していたのだ。
今回、何故夕張に北上の名がという私の疑問に応えて、その
説明に持参してくれたのだった。

3.11以降の石巻北上河口に立ち、その被災の爪痕今も残る
現実に深く感応した詩人吉増剛造が、1994年石狩河口滞在
に続き今夏北上河口に滞在詩作すると聞いた。
1994年春石狩河口に滞在し、その源流のひとつ夕張川を遡上
し生まれた名作詩「石狩シーツ」
そのコアとなったのが、この看板に記載された<女坑夫>鎮魂の
文字である。
日本の近代化と共に発達した炭鉱事業、それ故源流域に生まれ
た炭鉱都市夕張。
その底流に深く関わっていた<女坑夫さん>
そして吉増さんの故郷に近い絹の道、日本近代初期を支えた
シルク生産の担い手織姫の存在。
石炭と女坑夫、絹と織姫。
明治日本近代化のある意味原点ともなるふたつの事業、その
背後の女性の存在が、東北の東日本大震災3・11の被災地
で河口と坑口の入口で交叉し立ち顕れている。
火の災害を鎮める為名付けられた水を象徴する北上坑の命名。
そして地震・津波による地と水の災害を象徴する北上河口。
自然の地と火と水と、人間の創って来た近代が坑口と河口、
ふたつの口で、自然と人間の尺度を問い、深く深く我々の今
を問うている。

そんな感慨を秘めて上木さんの来た日、美瑛の丘でバージン
ロードを飾った村上仁美さんの花々が役目を終え一時的に
テンポラリーの床を埋めている。
道外から来た美瑛の自然に憧れた花嫁花婿。
その野外のバージンロードを飾った丈の高い白い花、卓上を
飾った丈の低い花・・。
まるでギャラリーの床はお花畑のようだ。
そこに上木さんの持参した女坑夫さんの記載ある北上坑の
看板を沈めた。
一瞬にしてその場は、鎮魂の庭となる。
河口・坑口ー水と火、大地と大海の入口。
土と水で生まれる花、
そして女坑夫・織姫・花嫁。
北上坑の木彫りの看板は、ギャラリーで不思議な花の光景を
一瞬浮かび上がらせていた。

*大野一雄追悼「大野一雄のプレスリー」-5月28日ー6月9日
 am12時ーpm7時:水・金午後3時閉廊。月曜定休日。

 テンポラリ―スペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
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# by kakiten | 2019-05-21 16:29 | Comments(0)
2019年 05月 18日

河口と坑口Ⅱ-小さなランド(Ⅴ)

北上坑とは炭鉱坑内火災で多くの犠牲者を出した事故を思い、
安全の祈りを籠めて大きな川の名前を付けたらしい、と沼田
さんから聞いた。
同時にキタカミという名は、ヒダカミ・日高見が語源で、金の
産地日高地方との交流・結びつきを表わしているいるという。
北上川上流域の平泉藤原三代の隆盛と北海道日高地方との川を
通した関係性が窺われる。
しかし何故近代において、夕張と北上が結びつくのか。
金に代わる黒いダイア・石炭なのだろうか。
疑問は未だ尽きない、
上木氏の来廊を待ち、聞いてみたいと思う。

最近、近代と現代の境を様々な事象で感じる事がある。
例えば以前ブログに記した、<馬力>。
谷川俊太郎作詞の鉄腕アトム歌詞にそれを感じた。
百万馬力ではなく、十万馬力と歌われる原子力エネルギー
のロボットアトムの力。
ここにはまだ微かに馬力への畏敬の念が残っている。
そこが近代から現代への境目だ。
電話もそうだ。
公衆電話・家の黒電話・会社の電話・・。
これらは共有する公的な存在であり、家でも誰かが受け、
指定の人に知らせる流れがあった。
個ではなく、家族・会社等が共有する機器だった。
これがケイタイ・スマホとなり個的機器に変じる。
これも近代と現代の境に位置すると思う。
エネルギー資源としては、石炭から石油への転化もその境
に在ると思う。
黒いダイアといわれ、手で触れる鉱物。
黒い水石油はもう手では触れられない。
まして原子力ともなれば、絶対に触れられない存在だ。
この手を通した関係性の有無が、やはり近代と現代の境に
在るという気がする。
北上河口ー北上坑口。
奥州・キタカミー北海道・ヒダカ・夕張。
この関係性にはまだ手を通す金から石炭の近代までの触れる
関係性が活きていたと感じる。
今至る所でこの近代と現代の境目が露わになってきている。
訳の分からない文字の事を表した、横文字という表現。
従来日本語は縦書きで横書きではないからだ。
今は横書きが主で、その所為か物を並べる順番も左から始まり、
右へと向かう。
縦書きならば、右から始まるのが普通だったのだ。
これも現代化の境と思う。
近代化が欧米化とするなら、すべてはその合理性・利便性に
物の尺度が移転しつつある。
ゆっくり噛み砕き独自の文化に育ててゆく、漢字→仮名文字
・カタカナの時間。
人の出入り口や通路でスマホ片手に、自分だけの世界に没頭
する街行く人を見るたびに、リ・パブリックの可能性を喪わ
れつつある近代のパブリックとともに見究めたい、と思う。


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# by kakiten | 2019-05-18 16:25 | Comments(0)