テンポラリー通信

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2006年 07月 26日

ナウシカの木ー界を生きる(30)

四、五日前に来て二階吹き抜けのベンチがすっかりお気に入りの真下沙恵子さ
んが村岸さんの留守中待つている間今日もベンチでお昼寝をしていた。風が通り
ポカポカと暖かな陽射しのなかうつ伏せになって眠っている姿は下から見上げる
と円山のようだった。そのうち土田彩織さんが来た。彼女は医大の学生で感受性
豊かな人である。吹き抜けの円山に気づき静かに会場で話もせずゆっくりと座っ
ていた。小1時間ほどして帰った後彼女が書いた芳名録の感想を見てああと思っ
た。<ナウシカの「フカイ」の地下の美しい水を浄化している木を想い出しました、
耳を傾けると心に水がしみわたってくる気がしました。>そうだよなあ。あのフカイ
の下で必死で荒廃した世界を浄化している木の根たち。その近未来的な映像は
今も何処かで悲鳴のようにこの地球の地下で日常的に繰り返されている光景な
のかもしれないから。そう思って夜、床に寝っ転がって仰向けになって見てみた。
絹糸で吊られた筒型の金属の鳴子竹の鳴子が揺らめき、木の幹が立つて見る
時とは違って天に浮いている。暗い上部に本来の立ち姿のように立っている。絹
糸の線が水の滴りのように尾を引いて筒状の鳴子が水滴のようだった。夕刻午
後の光の中で昼寝をしていた真下さん、下から見上げナウシカの「フカイ」を感じ
取った土田さんと若い女性たちの深い豊かな感受性には脱帽である。後刻村岸
さんと話したが男性陣は概してこの木は何処から持って来たか、音はどういう装
置で出てくるのかといった探求する質問や捉え方が多く、女性たちはもっとすっと
作品と同化しそこからの感想や行動が直接的なのだ。この両方の感性を持った
時人は初めて人間という本質的存在に至るのだろう。男女という現象がトランスペ
アレントし人という本質的存在に至るまでその過程が生きるという行為そのもので
あるのかもしれない。
今日はフアイバーアートの作家田村陽子さんが来て村岸さんの足型を取っている。
踝から下の素足を太目の藁のような糸で編んでいるのだ。写真で見せて頂いた
門馬ギヤラリーでした彼女の個展は足型が会場の細長い空間の壁にベンチの
ように並びキノコの森のようだった。なにかこの直接性具体性そしてその抽象力
女性たちはすごいなあと思う。
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# by kakiten | 2006-07-26 13:19 | Comments(2)
2006年 07月 25日

来る人、来ない人ー界を生きる(29)

定休日溜まっている色んな事あってギヤラリーに出る。留守録音ある。九州の阿部
守さんからだ。程なくまた電話が鳴り阿部さんだった。9月の個展の打ち合わせで
13日来廊の事と会場の広さ等の問い合わせが主な用事だった。阿部さんは5月
プレオープンの時ニユージーランドの銘酒ラフロイグをお祝いに送ってくれ、同時に
新作のカタログも併せて送ってくれた。「火焔鉄」というタイトルで彼の鉄の作品を陶
芸の窯で炎に晒し再焼成した過程を記録したものである。彼が3年前のテンポラリ
ースペースの個展で「もう一度鉄という素材そのものと向き合う」と言っていた事を
思い出した。さらに彼は作品を炎にかけ、鉄その物の出生にまで遡ろうとしている
ように思える。阿部さんのこの極めてラデイカルな方向性は素材そのものからもう
一度自分の作品を見直していこうとする真摯な姿勢から来ているのだ。現在福岡
教育大学で美術の教鞭をとりながらも北への熱い想いは今も変らずあって9月の
滞在制作は彼にとってとても大切な事である。今回は川と水をテーマにするという。
思えば遠い近いに関りなく遠くても来る人は来るし近くても来ない人は来ない。その
差は何処から来るのか個別な問題もあって一概には言えないが詰まるところは問
題意識の差、共有する意識の現場の違いとでも言えるのかもしれない。以前の空
間との違いから来なくなる人もいるし関係なくさっぽろを第一義に真っ直ぐ来てくれ
る人もいる。私にしても作家の大事な転換点に今回立ち会う事が出来ればこの場
所を立ち上げた労苦も報われるのである。前のスペースでは出来たが今の場では
できないなどと決して言わせはしない。

*28日(金)まで。村岸宏昭展「木は水を運んでいる」
*28日午後7時から村岸宏昭コンサート
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# by kakiten | 2006-07-25 15:13 | Comments(0)
2006年 07月 23日

痛々しさと愛しさとー界を生きる(28)

背の高い岡田綾子さんが来る。彼女は教育大の学生で村岸さんとここのペンキ
塗りを手伝ってくれた健康な女性である。今回の作品を見て第一声が「なにか白
樺が可哀想!」だった。吊られていろいろな物付けられて、倒れたままにしておけ
ばいいのに、という感想だった。そうかあ、岡田さんは素直で優しいのだなと思っ
た。なんらかの原因で倒れた木がそのまま朽ちていくのは自然であり、その自然
に逆らって人は余計な事をしているのかも知れない。しかしもし木を切りそれが何
んらかの道具に加工した物だったら同じように”可哀想!”と彼女は言うだろうか。
素材その物が形を残して提示されているから、その現実のもつ一種生々しさに反
応しているからと思う。食材となる鳥や魚や獣の事を考えればもっと分りやすい。
西洋の婦人が初めて焼き鳥を見て何と可哀想、残酷なと言った事を思い出す。し
かしその本人は牛を食べ豚を平気で食べているのである。愛しさの方から見る視
線と痛々しさの方から見る視線その両方の狭間に私たちはきっと生きているのだ。
そしてその両方ともが真実なのだろうと思う。昨日の看護師さんの感想は現実に
患者さんという生死の境を日常見ている人の視線であり、岡田さんの正直なしかし
健康な日常の視線とは1本の木そのものを巡っても評価が分かれるのである。
翻って根もなく梢もなく針金で吊られている一本の木の存在とはその痛々しさに
措いてあるがままのもうひとつの現実であり、その愛しさも含めて私たちの生の
現実であると思える。今日この時間にも世界中でマンシヨンにダムに大豆の畑に
樹が切られ倒れている筈だ。その無自覚な事実の累積に鈍知である日常に、痛
々しさと愛しさの軸が入った時それは鈍知な現実を一歩超え私たちを取巻く世界
が一歩深まって顕われる事ではないだろうか。私には村岸さんの展示した白樺が
その痛々しさと愛しさの界に立ってさらにその事にすら鈍知の現在に対峙している
と思える。

*28日(金)まで村岸宏昭展「木は水を運んでいる」AM11時-PM7時
 最終日午後7時から村岸宏昭ギターコンサート
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# by kakiten | 2006-07-23 12:54 | Comments(4)
2006年 07月 22日

陽の光が人を運ぶようにー界を生きる(27)

村岸宏昭さんが大きな網元の末裔である事をご親戚の方が来て初めて知った。
大きな袱紗を持参されその真ん中に家紋が染め抜かれている。百年以上も前の
物という。お祝いを包む時に使うそうで少しも古びていない凛としたものだった。そ
の袱紗に包まれた心こもる数々の贈り物を戴き村岸さんは幸福そうだった。そうい
えば円山川の源流から倒木の樹を切り、自転車でここまで運び込んだ力技は漁師
の血筋なのかも知れない。大きな太巻き寿司の差し入れを私たちふたりにしてくれ
その親戚の伯母様が帰られた後次々と人が来た。午後の光が燦々と煌くように会
場を包み二階吹き抜けの窓辺のベンチに人が座って笑い寛いでいた。鳥のようだ。
そしてそれは夜遅くまで続いた。白樺の幹に耳を当て今日は何度白樺は人に抱か
れた事だろう。触り、聞く、そして見る。空間自体が一日の光の変化と共に1本の
白樺の森の庭のようにある。幹を抱いて川の音に耳澄ませるその行為が作品と
観客の境を外してくれる。そして人は自由に空間を動き回り感性を開いてゆく。
根のない、梢のない樹の周りで人はいろんな事を感受している。生きている事の
どこか根源的な時間を知らず知らずに体験している。そんな気がするのだ。耳を澄
ます、木肌に触れる、倒木の在った場所の地図を見る。その地図も実はスピーカー
になっていてその森の鳥の声が響いている。見るだけではない。耳も澄ます。その
時この小さな空間は森の庭になり、森の樹の感覚が再生される。村岸さんの音へ
の感覚が音楽演奏とはまた違った形で今この作品には生きているのだ。展覧会を
見た看護師さんから1通のメールが届いた。
<先日は私も白樺の木のそばに立って、触れましたが、(中略)「見て触れて聴く
事」、いつも私が私なりに方法で、人に対してしていることを、白樺さんに対しても
、すっとできました。白樺もひとつの命として生きているということ、同じような、感覚
になりました。>
普段仕事の上で日常的に生と死に向き合っている人の飾らない真っ直ぐな感想が
村岸さんの今回の作品に対するなによりの言葉かと思う。
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# by kakiten | 2006-07-22 12:00 | Comments(0)
2006年 07月 21日

隙間なく光そそぐー界を生きる(26)

村岸さんの会期中初めて晴れる。午後、光溢れる。初めて白樺に陽光が隙間なく
ふりそそぐ。やはり白樺には陽光と青空がよく似合う。夕刻電気の光だけになる頃
石狩在住の美術家石川亨信さんが来る。彼は実家がお寺で僧侶でもある。今年
1月退去前のスペースに来てくれた時”一度はここで展覧会したかったなあ”と言
って持参した年賀状に「惜」の一文字を記して手渡してくれた。普段あまり深く話し
をした記憶はなかったからその時初めて彼の心情に触れた気がして嬉しかった。
今日は初めてここを訪れてくれお祝いに一升瓶を持ってきてくれたのだ。ゆっくり
と見てくれる。いつもは割とクールでそんなにゆったりとした姿をみせて会場にい
るのを見たことがない。二階吹き抜け部分に上がりそれから下の会場と見てその
うち床に座り込む。時間がゆっくりと過ぎていく。彼に頂いたお酒を開ける。途中来
た熊谷透さんと四人で呑む。よもやま話をしているうち酒井博史さんを良く知って
いると言う。酒井さんの家は石川さんの檀家だそうで昔からよく行っていたと言う。
「拗ねた子供がいたなあ」。世の中狭いもんだ。酒井さんもとんだところでガキの
時代の姿を語られる。今もあまり変らないからいいでしょうけれど。午後9時過ぎ
に仕事の都合で来る予定の村岸さんの友人を待つつもりが石川さんの来訪で待
つという感覚がなくなり10時近くまで時間が過ぎた。結局その友人は来なくてそ
の後村岸さんと食事をして帰る。美味しくて安く量のたっぷりなカレーだった。
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# by kakiten | 2006-07-21 15:30 | Comments(0)
2006年 07月 20日

音の雫降る降るー界を生きる(25)

村岸宏昭さんの展示がほぼ完成する。吊り下げられた白樺の周りには筒状の
竹や金属の触ると音ので出る「茂み」という作品が幾つも雨の線のように上下に
吊られている。吹き抜けの二階から白樺を囲むようにそれらがある。見る人は自
由に触れ音を発する。さわやかな音色が響く。また白樺の幹に耳を当てるとそこ
には白樺の木が立っていた傍の川のせせらぎが聞こえる。根を失い枝を失った
白樺は今しかし雨の線のような音を立てる「茂み」に囲まれかっての生きていた
場所の川音に抱かれ立っているのだった。山の中の一本の倒木がこうして今体
内の水を静かに発散しながら仮構の自然のうちに居る。何らかの原因で倒れた
樹を元に戻す事は出来ない。しかしその樹を愛しみその樹を通してその樹の生き
た時間を再生しようとするある行為を人間はする事が出来る。そのある行為とは
表現として虹を架ける心挿す行為だ。現実の進行、結果その物に制止も変更も
叶わない。その不可能を見定めた時に何故かその不可能を超える心の行為を
人は現実を再構成するように成し遂げようとする。芸術や文化が力を保つのは
そういう時である。政治や経済が発する力とその基盤が違うのだ。何もなくなっ
た時死の時にこそその力が発揮される。本当に心が自由になる時間は現実の
解体の後にこそ訪れる。それは祈りのような時間かも知れない。政治や経済そし
て社会が管理し支配している時間の外にあるその止むに止まれぬ衝動のような
力、その現実的な結果の向こうにきらきらと輝こうとするものを人は何故形にしよ
うとするのか。五感の凡てをフル活動して、第六感、第六体として存在させようと
する。村岸さんがストレートな形で表現した空間はそこを根にしている。倒木の
1本の白樺の木が意味を持つのはその時間に存在するからだ。樹は根を喪った
が、作家はその樹に別の根を与えたのだ。そしてその樹は私たち自身の生と死
の界に今立っている。
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# by kakiten | 2006-07-20 13:18 | Comments(2)
2006年 07月 19日

ひょっこり、ふらりと人が来るー界を生きる(24)

夕方大雨の止んだころ、東区の熊谷直樹さんと岩重守剛さんが来る。古舘賢治
さんのCO「アップ・ザ・ウィンド」を持ってきてくれた。そしてまもなく不意にというか
急に東京の沼田康弘さんが来た。友人のパン屋さん柿沢さんと一緒だった。長崎
の不知火で制作された新作映画の話しを熱くみんなの前で語った後風のように消
えた。そういえば’89年に最初に会った時の彼は「風の旅団」だった。変っちゃい
ないよなあ。その後熊谷さん岩重さんと村岸さんを含め四人で色んな話しをした。
ふたりが帰る頃シンクガーデンの薄木理奈さんとチベットの写真を撮っている川原
亮さんが来る。川原さんの写真は正攻法な真っ直ぐな目線で撮られていて好感が
もてた。人物が主体でもう少し踏み入れるともっと良くなると思うがこれは経験とい
う時間が解決してくれる。基本的に被写体の人間の人生に対する愛情と謙虚さが
撮影する人間の眼に感じられそれがカメラの目線を通して伝わってくる。それがあ
れば技は後から附いて来る。美しい物を美しい、尊敬や敬愛をそのまま卒直に留
めることが写真ではないだろうか。移ろい消えていく現実の時間を留めること。いろ
んな技術で加工し際立たせる事があっても究極には<真>を<写す>事ではない
かと思う。被写体が保つ奥底の掛け替えのない<真>に対して写す人間が不遜と
なってはお終いだから。村岸さんの展示初日はそんなこんなでバラエテイーに満
ちたものだった。午後12時も近くなり解散し自転車で帰る。自転車を置きに気功の
熊谷さん宅に寄る。今夜はソーメンパーテイーがあった筈だがもう遅い。家に顔を
出すと熊谷さんがいて酒を出してくれる。逗留中のバイクマン畑間由隆さんも二階
から出てきて話し出しそのうち熊さんがソーメンをゆでてくれた。昼は大雨で食べそ
こなったの助かった。美味かった。満腹になり帰ってすぐ寝る。

*村岸宏昭展「木は水を運んでいる}7月18日(火)-28日(金)AM11時ーPM7時
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# by kakiten | 2006-07-19 13:40 | Comments(6)
2006年 07月 18日

白樺と雨ー界を生きる(23)

村岸宏昭さんの展示が始っている。白樺の幹が会場中央に吊られて薄いスピー
カーが五ケ所取り付けられ耳を当てると川のせせらぎが聞こえてくる。同時に視
覚的には生命維持装置を付けた集中治療室の存在にも見える。心臓や鼻等に
線を付け何かをあてがっているあの風景だ。白樺の幹に耳を当て水音を聞くとい
う行為とは別のもっと痛々しい姿だ。本来は春に水を吸い上げたであろう白樺が
今は水を吸い上げる根を失い水を送るべき枝先を失い宙に浮き人工の水音を
聞いている。倒れてまだそんなに時間の経っていなかったこの白樺は水分がまだ
多く切り口に白いキノコが生えたという。そんな白樺の為にキーシンのショパン「
ピアノ協奏曲一番」をかける。13歳のキーシンが弾く私には川の一生のように聞
こえる名演奏である。黒く蔽う空の雲、そして雨粒の一滴のようにキーシンのピアノ
が打ち下ろされる。源流、渓流、淀み、平野の伏流水、泉、そして合流、大きな河
やがて海へさらに海の中を流れる川そんなイメージがこの曲にはある。さっぽろの
具体的な場所さえ思い浮かぶ。その間白樺の幹に耳を当て水音を聞いてみた。
目を瞑ると音と音楽が木霊している。眼で見たときの痛々しさ、眼を瞑った時肌に
触れる触感と耳に響く音の触感その眼と耳の落差は村岸さんの音楽家として
の一面と美術家としての両面でもあるように思われた。表現者として眼と耳との
両義性がそのままここにはある。樹の生命力水を運ぶ力が萎えた時、樹は死ぬ。
生命維持措置を付けたように見える視覚的な樹の存在はそのまま現代に対する
村岸さんの視線なのかも知れない。目を瞑り木に触れ耳を澄ますとそこに土に
触れ水に触れ生きている本来の樹の命がある。それは梢が光に向かって空に根
を張り、根は水を求めて土に枝を伸ばす木の保つ命の脈動を感じる事でもある。
村岸宏昭さんの荒削りな、しかし眼と耳両方に渉った果敢な表現の挑戦はスト
レートに樹を通して私たちの時代の断面を提示している。「木は水を運んでいる」
と題された展示の作業の昨日今日、空も水を運んできた。雷が鳴り、豪雨だ。
会場の白樺の木もまた、横たわらず天と地に向かって立っている。本当の雨音、
本当に立っていた処の川音を聞きながら。

*村岸宏昭展「木は水を運んでいる」18日(火)-18日(金)AM11時ーPM7時
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# by kakiten | 2006-07-18 14:29 | Comments(0)
2006年 07月 17日

白樺とハイタッチー界を生きる(22)

昨日で藤谷康晴展終わる。作家の感想。「濃い時間でした・・。」藤谷さんは昨日
終日余ったDMに絵を描いていた。総数約50枚。展示した作品とは違い抽象的な
線描画である。閉廊時間の午後7時までひたすら描きつづけていた。最後の1日
を惜しむように刻々と過ぎていく時間を埋めつづけていた。きっとこの作品は次な
る展開へと繋がって行くのだろう。7時近く教育大で映像を専攻している春日眞弓
さんが来る。藤谷展の記録をビデオで撮ってもらう為頼んでいたのだ。春日さん
は昨年一昨年と東京の映像作家石田尚志さん個展の折り彼の作品世界に深く
傾倒した人で彼女自身も優れた感性で映像作品を創っている。今回の藤谷さんの
作品会場を是非記録編集して欲しくお願いしたのだった。一階から始まり二階吹き
抜けと丹念に撮影してくれる。そうこうしている内に次の展示者村岸宏昭さんが
白樺の木を持って現われた。酒井博史さんの車で運んできた。追いかけるように
シンクガーデンの久野志乃さんが藤谷展を見る為現われる。そして美術家の清治
拓真さんも来た。彼は以前のテンポラリースペースの床をスキャナーで記録しいつ
かそれを作品として展示したいと思っているのだ。前のテンポラリースペースの床
は川の痕跡のように地下の地盤の歪みが顕在化して独特の表情を保つていた。
時間と共に顕われた地質の記憶である。そこは今青空駐車場となって床も喪われ
てしまった。原寸大のあの床がいつか立ち上がって展示されればあの場の記憶は
再生され其処を流れていた界川の記憶も再生されるだろう。志乃さんのお祝いの
ワインをあけみんなでささやかな藤谷さんのクローズイングと村岸さんのプレオー
プニングが始った。直径30センチ長さ1メートル程の白樺の幹を見ながら話が弾ん
だ。その幹は地上より3メートル位の高さの部分という。とすればもっと下の部分は
太いわけで前の店舗の25年の白樺とほぼ同じ大きさの木である。この木を通して
川の水音を聞かせるのが今回の展示の主要なモチーフである。今夜は徹夜でと
村岸さんが呟いた。ほぼ目の高さに白樺の木が吊り下げられ会場中央に位置す
る。そこに耳を当てると水の流れ川の音が聞こえる。そんな設定となるようだ。
さんさんと降り注ぐ光の中白樺の木肌がこれから10日あまりこの場で見詰めること
ができると想像するだけでもなにか幸せな気がした。村岸さんを残してみんなが帰
路につく時藤谷さんと村岸さんが笑いながら”じゃあ!バトンタッチ!”と言ってハイ
タッチを交わしていた。その時ふっと藤谷さんの描いた札幌の街と白樺がタッチし
て、それは私自身の生きてきた心のさっぽろのハイタッチのようにも思えた。

*村岸宏昭展「木は水を運んでいる」7月18日(火)-28日(金)
 AM11時ーPM7時(月曜休廊)
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# by kakiten | 2006-07-17 15:04 | Comments(0)
2006年 07月 16日

歩きそして人と逢うー界を生きる(21)

児玉文暁さんの徒歩世界旅行旅の話とスライドの集まりが昨夜あった。連休初日
の夜という事もあるのかそんなに沢山の人は集まらなかった。それでもどこか緊張
気味の感じで児玉さんの話が始まった。ヨーロッパ、南米、ニユージーランド、オー
ストラリアそこで出会った生き物、人、風景、徒歩ならではの出逢いである話が
淡々と時にユーモラスに語られる。アポリジニの楽器デイジュリドウの演奏も交えな
がら約2時間半の話だった。散会後もう一人の自転車で北海道一周中の伊祁(い
き)宏将さんと児玉さん三人で軽い打ち上げをした。ふたりとも四国の徳島県出身
で徒歩と自転車の違いもあるがやはりタイプも違う。伊祁さんは将来故郷の徳島
でギヤラリーや宿泊所レストランと多くの人が集まるスペースを夢見ているようで
四国四県を繋ぐセンターを創りたいと話していた。児玉さんも歩く事で見知らぬ人
と出会いそのネットワークがなによりの旅の醍醐味だと話していてその人との出会
いという点でふたりの旅は共通していた。生まれ育った場所の衣を脱ぎ裸となって
一対一で未知の人間と出会う、その為に歩き、自転車をこぎできるだけ人力に近
い手段で旅をする。そして自分自身の目で世界に触れる。旅とは裸の一個人にな
る事そして肌で世界に触れる事それに尽きるのかも知れない。学校を出て会社に
勤め、社会の枠組みに繰り込まれる前にもう一度自分自身を生まれたままの裸に
意識的に曝け出してみる試み、その心の衣装を脱ぐ行為がきっと旅なのだ。三人
三様の旅の話しを語っている内に共通の場所が人がポツリポツリと出てきて面白
かった。岩手県の土澤という町はそこに住んでいる彫刻家の菅沼緑(ロク)さんが
関ってアートイベントを仕掛けているがその土澤が児玉さんの日本を歩こうと思っ
た原点となった町であったりして私は今年4月さっぽろを訪ねて来たロクさんを通
して土澤を知っていたからそのアートイベントのカタログを見せると児玉さんもすっ
かり驚いたり納得したりで喜んでいた。伊祁さんも土澤に行くと場所をメモしていた
。なにかこうしてまた人が繋がっていく。今尾道に居る野上裕之さんもきっと何処か
で繋がっていくに違いない。旅の範囲や場所は違うがさっぽろはさっぽろのここで
しかきっと会えなかっただろうと思う。心の溜まり宿を発見するのも旅ならではのこ
とである。
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# by kakiten | 2006-07-16 12:38 | Comments(0)