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テンポラリー通信

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2020年 07月 19日

木は水を運んでいるー荒地(31)

ずっと何処かで気になっていた。
村岸宏明最後の個展のタイトル。
<木は水を運んでいる>。
この<運ぶ>という言葉だ。
15回目の命日を来月に意識して、ふっと気付いた事だ。
「人はウイルスを運んでいる」
人は国家・社会を越えて、グローバルな回路を経済・交通
の回路として地球規模の物流構造を築いてきた。
そこに新型コロナというウイルスが人を介して運ばれ、現在の
感染状況がある。
一時代前であれば、中国一地方の風土病のような現象が、物と
人のグロ-バル回路と共にニューヨーク、東京に代表される
人と物の大集散地に集結し感染者を日々大量に発生させている。
<木は水を運んでいる>位相と対峙するような<人は新型コロナ
を運んでいる>状況は、人と地球・人と国家社会の在り様を
<運ぶ>という共通する言葉で、ムラギシはすでに感受していた
気がしたのだ。
高校3年の時描かれた唯一遺された油彩画は、その若い感性が向
き合った社会への視座がある。
膝を抱いた骨だけのような腕・指。
その足元は不確かで、首を吊った身体のように不安定だ。
大学に入り自然と向き合い作曲し、演奏を続けていた彼の遺した
CDに「銭箱から星置まで」という曲がある。
これは実際に海岸から内陸の川の源流域まで歩いて創られた曲・演奏
である。
道途中の風・波音も音として曲に取り入れられているからだ。
最後の個展「木は水を運んでいる」では、円山川源流域の白樺の倒木
を運び込み、会場中央吹き抜けに吊り、見る人は樹の幹を抱き耳を充
てそこに仕込まれた音を聞く展示だった。
音は展示の樹の立っていた傍を流れる川の音、そして吹き渡る風の音。

樹木の保つ有機的な命の脈のような水音。
地と繋がり命へと繋がる<運ぶ>。
この本質的な<運ぶ>の差異を、現代社会に対しムラギシはすでに問い
かけていた気がする。
高知の川で死んで15回目の夏。
15年目の<追伸>を、私は私の選択で他の作家たちの作品で構成して
みたいと思う。

*「ムラギシ追伸ー15年目の夏」ー8月18日-30日

 テンポラリ―スペースー札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503




# by kakiten | 2020-07-19 17:51 | Comments(0)
2020年 07月 14日

15年目のムラギシー荒地(30)

若い友人村岸宏明が2006年高知の鏡川で溺死して15年になる。
来月8月に命日が来る。
1897年から続いた老舗の家業を閉じた年、その半年後に現在地
にギャラリーだけを残して新たな場を創った。
心通じる友人たちの多大な協力で、荒れた古民家を再生した。
狭い展示スペースは、天井を抜き縦に拡がる縦軸の空間とし、
土壁は板を張り白い壁とした。
古いがしっかりした梁木・棟木はそのまま残し、押し入れなど
の空間に床板を張り2階余剰部分は回廊とした。
展示場から2階に登る為吹き抜けを繋ぐ梯子を設け、奥の階段
と併せて昇り降り可能にした。
その為作品を見る人は、自らの視座を身体の移動と共に作品を観
る角度を獲得し、新鮮な身体を通した経験を得る効果が生まれた。
こうした空間構成を一番最初に評価し喜んでくれたのが村岸君
だった。
そして自ら初の個展を開廊の2ヵ月後に開いたのだ。
この展示の想い出は死後かりん舎より出版された追悼遺稿集に
心籠めて私は書いた。
他にも彼の多くの友人、先輩、恩師たちが心深い文章を寄せている。

作曲・演奏のみならず、絵画、インスタレーション、文章を含め、
表現者として全身で生きようとした村岸宏明を、私は私なりの構成
で追悼の展示を企画してみようか、と思っている。
コロナ、九州豪雨と心重い年に、社会と向き合い、自然と向き
合ったムラギシの純粋な魂を、テンポラリ―スペースの収蔵品で
構成してみたい。
ムラギシの僅か23年の純粋な人生の精髄には、コロナ以降顕在化
した自然と人間、国家社会と人間の、現代が孕む多くの相克が凝縮
して息づいている気がするからだ。

*<ムラギシ追伸ー15年目・夏>ー8月11日ー30日

テンポラリ―スペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
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# by kakiten | 2020-07-14 15:10 | Comments(0)
2020年 07月 07日

孤独な夏ー荒地(29)

気温・湿度が上がる。
額と首に汗が滲んでいる。
やっと本格的夏。
これまで夕刻を過ぎると、寒気が漂った。
体調が狂い、少しバテ気味だった。
しかも低血圧でふらつき、目眩がした。
透析治療が5時間から4時間になり、少し楽だ。
ドライウエイトも少し増やしてくれた所為もある。

今朝のTVニュースで南九州地方の豪雨の画面を見る。
10mの高さで一気に水が街を襲う。
土砂崩れ、川の氾濫、人も車も建物も橋も呑み込む。
梅雨とも重なり、まだまだ続くようだ。
泥水の街にコロナの危険も隣り合わさっている。
自然を人間のインフラのように扱ってきた附けが、自然
の剥き出し野生の逆襲のように感じる。
微小生物ウイルスの増殖、昆虫大群の農作物襲撃、鳥の
空を埋め立てる大群襲来と今回の清流大氾濫は、何処かで
同じ気脈にある気がする。
人と自然の共生空間・故里がその界(さかい)の位相を
喪失して傲慢な人間社会の利害が、荒々しい自然野生を
呼び寄せている。
大国が宇宙を支配しようと、多くのロケットを宇宙空間
に送っている。
大気圏・オゾン層もやがて破壊され、地球自体の界(さかい)
の位相もいずれかには喪われるのかも知れない。
故里と呼べる風土が、恐ろしい勢いで喪失している現実が
現代である。
心の難民が都会のビル群の間を彷徨い、グローバルという
名のタワー社会構造が個々の故里を吸い上げていく。
海も山も観光資源と化し、その恵みは商品資源として大量に
加工され金銭対象でしかない。
故里は、住んで生きる人間の生活の場を希薄にして、遠い昔
に情緒の木霊で漂うしかないのか。

これから台風の季節も来る。
コロナ―台風ー地震ー津波と自然と人間の戦争は続く。
敗戦75年前の予言のように、ある言葉が想起される昨今だ

 「さよなら、太陽も海も信ずるに足りない」

 *花人・花や展ー7月9日(木)ー11日(土)am12時ーpm7時


 テンポラリ―スペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き

 tel/fax011-737-5503


# by kakiten | 2020-07-07 19:17 | Comments(0)
2020年 06月 28日

後ろ姿-荒地(28)

最近はゆっくりと歩く所為か、前を歩く人の背中を
見る事が多い。
先日も若い男女が先を歩いていた。
その後ろ姿を見ていて、ふっとある事に気付く。
男は肩と背中が中心で、女は腰と脚に中心軸がある。
ふたつを上下一体にすると、人間という生物になる
気がした。
数式的にすれば、男✖女=人間である。
身体は自然にそうした抽象を孕んでいる。
✖は&でも良い。
そして年齢を重ねた身体の後ろ姿は、時にその人生の
生き様まで顕している時がある。
男であれば、肩も背中も狭く、手と足の振りは常に外向きで
肩ひじ張って歩く。
女であれば、肩・背中と脚・腰が同じ塊りとなってコロコロ
と歩いている。
特に男は、あまり真正面から会いたくないタイプだ。
かって自転車で通勤していた頃、北大構内のエルムトンネル
上の遊歩道を通っていた。
真ん中の通路が自転車専用で色分けされ、その両脇が歩行者
通路に分けられていた。
その自転車通路のど真ん中を、両手を外向きに振り左右を睥睨
するように歩いている初老の男性がいた。
何度か見かけていたので、自転車を擦れ擦れに横から追い越し
たら、後方で大きな声をあげ威嚇された。
緑燃える我が天地を邪魔しやがって、とでも言いたいような
車道の中心を歩く傲慢な歩き方が癪に障った。
歩道を自転車で突っ走るのに遭遇するのも嫌だが、森の遊歩道の
自転車専用ゾーンを我が物顔に歩かれるのも嫌だ。
二輪であっても自転車は車であり、車道を大手を振り外股で歩く
人などいないのが当然なのだ。
大通公園から植物園ー伊藤邸庭園ー偕楽園緑地ー清華亭ー北大構内
と続く緑の運河・エルムゾーンを全身で感じながら歩き、時に自転
車で風景を風で感じ走るなら、この都心に遺された自然風土にもう
少し謙虚な歩行であっても良いと思う。

しかし今にして想い返せば、私も自転車の煽り運転でもしたようで
気恥ずかしい気もする。

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
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# by kakiten | 2020-06-28 15:10 | Comments(0)
2020年 06月 18日

一草一木の視座-荒地(27)

コロナウイルスは、地球生物としての人類に様々な<反>
を突きつけている気がする。
そのひとつが、ソーシャルディスタンスという言葉だ。
感染防止で人と人との間を保つ、という感染防止用語だ。
なにか何処かで聞いたような引っ掛かりがあって、ふっと
思いついた。
「親しき中にも礼儀あり」という格言だ。
この精神的な戒め概念が、ボデイの接触、感染防止の観点
から警告する言葉となって今、在る。
コロナウイルスのあっという間の世界的曼延が、人と物の
グローバル回路を通して展開されたように、「親しき中に
も礼儀あり」という精神概念は、病というボデイへの警告
となって今、在る。

薬屋、酒屋、米屋、洗濯屋、駄菓子屋、金物屋、本屋、等々
あらゆる地域のインフラをそこに住む人が担っていた時代
には考えられないタワー構造的一極集中分散拡大の物流社会
構造がもたらす観念がグローバリズムである。
薬屋はドラグチェーン店、金物屋は巨大な横文字のナントカ、
全国的に同名で展開する数社が支配する。
人と風土との結びつきは希薄となり、巨大なブランドタワー
構造支配・吸収が主流となっている。
公園の一本の名も知らぬ巨木に魅せられた私は、この一本の
樹が春夏秋冬移り行く立ち姿を、一草一木のこの地の風土と
共に見続ける。
同じ種類の樹とかいう、名前のブランドを見詰めている訳
ではないのだ。
人類は地球世界を、抽象・総括し概念化し支配化してきた。
人間社会の民族・国家間の争いに留まらず、現代は物流を
主流とするグローバリズムが経済活動という回路で世界を
席巻している。
それは一草一木という個々が消え、風土という地域固有の
自然環境が喪われていく事でもある。
コロナウイルスは、人間と物に住み着いて反世界の魔物の
ように人類に対峙している。

 *花人・花や展ー6月18日ー21日午後1時以降7時まで。

 テンポラリ―スペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
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# by kakiten | 2020-06-18 16:06 | Comments(0)
2020年 06月 11日

樹・着る―荒地(26)

いつもギャラリーへ通う時近道に通る道角の公園。
先日ふっと立ち眩みがして休んだベンチの傍の大樹。
多くの緑の葉が茂っていた。
冬・早春の裸木の姿に感動したが、緑の衣装を纏った
夏の姿も良い。
樹が着物を纏っている・・・。
そんな気がした。
二年ほど前織りと染色をしている布の作家が初めて着物を
仕立て現代美術の画廊で展示したのを見た事がある。
作家の母上が亡くなり、初めて着物に仕立てたと聞いた。
お母さまの背丈、身体を想定をして織り上げ仕立てた気持ちが
見る方にも伝わる感動があった。
この時私は初めて日本語の<着物>という言葉の意味を理解
した気がした。
衣装でも制服でもなく、身が着る・もの・・・。
私たちはここ百余年の程の近代化によって、<身>という感覚を
忘れ、身はボデイへと変質しつつある気がする。
生まれた時からある目的性の有した服をボデイに纏って大人となる。
園児服ー学生服ー背広といった具合だ。
着るものの主体性が、身にはなく身はボデイのサイズ対象なのだ。
着るものとしての<着物>は、<身>が主体で、精神性・個性も
秘めていた。
そんな<身>の言葉はたくさん遺されている。
曰く、もっと身を入れろ、身に沁みる、身も心も、身の丈に合った、
身の程、身銭・・・。
人が主体で着るもの・・・着物。
あの公園の巨木は緑の着るものを、枝から幹から梢に至るまで
身に纏っていたのだ。
何の樹か未知だが、彼・彼女は身から出た固有の着物を着ている。

植物はどこか遠い日本人の姿・形のようである。
着物の裾が風で揺れる風情は、草花の姿に似ている。
裸木の幹・大枝、小枝、梢の立ち姿は羽織・袴の立ち姿に似ている。
それに比べ多くの洋服姿は、用途目的の明白な制服性を強く感じる。
鹿鳴館の夜毎の舞踏会で始まった日本の近代化の衣装性が、そう
させているのかも知れない。

コロナウイールスで露見した、人と物の物流のグローバリズムは
中国一地域で発生した流行病を瞬く間に人と物のグローバル回路を
通して、世界中へと伝染を拡大させた。
我々は今一度風土の固有性に目覚めなければならない、と思う。
グローバルはインターローカルな個の位相まで、あの一本の樹
のように<身>を正さねばならぬ。

 テンポラリ―スペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
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# by kakiten | 2020-06-11 16:58 | Comments(0)
2020年 05月 31日

空を削るー荒地(25)

谷口顕一郎・彩子さんの5月ドイツ帰国も消え、鼓代弥生さんの個展
予定も消えて、新型コロナの影響は私の5月を寂しいものにした。
寒暖差の日々が続き、体調も今一つ・・。
治療のドライウエイトの減量の所為もあってか、血圧が低い状態が
続き、立ち眩み、息切れがする。
最近は頭の意識で歩行せず、足の行為だけを信じて足に任せる事に
した。
早い、遅いは気にせず、足のリズムのまま歩く。
昔から下りの速さは、登山をした時も韋駄天と呼ばれていたから、
その当時を思い出して、目で歩行を見ず、足の感触に拠るリズム
を主にして歩く事にした。
早速、地下鉄の長い下りの階段でゆっくり下っていたら、忘弱無人の
追い越しを駆けて追い抜いていった男がいた。
私は山での下りを思い出して、静かに足のリズムに任せ速度をあげ
階段下で追いつき静かに肩を並べた。
先行していた傍若無人男は、ふっと横にいる私を見て、えっという顔を
して驚きの表情だった。
地下鉄乗り換え時には、みんなが老若男女問わず急ぎ足だ。
階段でもエスカレーターでも速度が優先する。
私は今、あえてゆっくり歩く。
乗り換えの電車に間に合わなくとも、なにか周りの速足・追い越しと
同じリズムには馴染まないと悟ったからだ。

階段もエスカレーターも我勝ちの速歩は、心を削る。
現代は<空にむかって眼をあげ>る空を削る。

*延長・八木保次・伸子展ー6月2日ー14日。月/水/金休廊。
火/木/土/日のみ開廊・12時~午後7時。

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# by kakiten | 2020-05-31 16:41 | Comments(0)
2020年 05月 09日

空にむかって眼をあげ・・-荒地(24)

近代と現代の界(さかい)目は、何処で顕れるのか。
それぞれの分野、それぞれの人生の節目のように
それは在る。
一方で時の垂れ流しのように、眼前の時に流される
まま過去へと束の間の現在を葬ってしまう今もある。
多くの都市風景が今そうである。
新しいビルが建立されると、それまでなにが在った
かもう思い出せないのが現在という時代である。
競争原理・一極集中主軸の現代社会、新旧・早い・
遅いの一元的価値観が支配しているかに思える。

新型コロナの世界的曼延速度は、皮肉にもこれらの
現代的条件がその速さ、新しさとして人間に牙を向いて
存在している。
地球の最小微生物ウイルスが最新・最速のグローバル
回路に乗って人類を覆う。
最後尾が最先端なのだ。
そして普段裏方の医療関係者の苦労、感染死者を葬る
火葬場の苦労、日々ゴミ収集に従事する人達へと関心
も寄せられている。
ここでも最後尾が最前列。
本当は何時だって、真実の最前列・最前線は、最前列に
して最後尾、最後尾にして最前列なのだ。

私たちの現代とは、一無名兵士の死の記憶をその始まりに
記した戦後詩「死んだ男」に始まる、と私は思う。

 埋葬の日は、言葉もなく、
 立会う者もなかった。
 憤怒も、悲哀も、不平の軟弱な椅子もなかった。
 空にむかって眼をあげ、
 きみはただ重たい靴のなかに足をつっこんで静かに横たわったのだ。

3・11、今回の新型コロナの多くの死者たちもまた、立ち会う
者もなく<重たい靴のなか>に横たわったのだ。
戦争・災害・流行病と原因・時代形態は違えど、最前線の死者の在
り様は時を超えて現代を縁どっている。
明治の開国と同時に開いた近代というモダニズム。
その終焉を個の無名死の敗戦と共にむかえ、発せられた印象的な
言葉・・・<空にむかって眼をあげ>・・・。  
この裸木のような垂直な視軸こそが、近代と現代を分かつ
杭のように私は感じている。
そして死者の言葉として顕わされた遺言。

 「さよなら、太陽も海も信ずるに足りない」

人間社会を突き抜け、より根源的な自然そのものまで達する視線。
その視軸こそが、近代ではなく現代を撃っている。

八木伸子の80余歳、八木保次の20代にそれぞれ描いたふたり
の札幌風景、建物をしみじみと見ながら思う事は、こういう
風景も建物も私たちは決定的に喪失しつつ20代から80代まで
ただ急ぎ足で駆け抜けていく。
最後尾の無名戦士が、国家でもなく、敵国でもなく、自然そのもの
に対する深い目線を、<空にむかって>送っていた事に最前列の
現代、その始まりを思うのだ。

*八木保次・伸子展「札幌近代・浪漫」-5月10日まで。
 午後1時ー7時。
 
テンポラリ―スペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503



# by kakiten | 2020-05-09 16:42 | Comments(0)
2020年 05月 02日

ふたりの・近代ー荒地(23)

陽射しが長く、気温が上がってくる。
桜咲き、野の花も勢いを増している。
画廊正面に並んだ保次の重厚な軟石洋館の油彩。
伸子の淡い色彩の溢れる公園風景。
南窓から西入口に移る陽光・時間とともに揺れる。

保次の絵画には20代東京へ行く前の、アンビシャスな
野心が息づいている。
重厚な石造りの洋館を描く視線が、濃く熱い。
一方80歳を過ぎた晩年の伸子の絵画は、少女のように
ロマンチックで、大通公園は淡い光に包まれて森も建物も
夢の縁取りに括られている。
左下に小さく描かれたひとりの男性が薄紫の着衣の女性と
思しき人を頭上に高く抱き上げている。
その傍にはライラックの紫の繁み。
伸子さんの20代のサッポロ浪漫だ。
こんな風に札幌都心部を描ける夫婦など、もう何処にも
居ないし今後も顕れる事はない。

1970年代に描かれたと思えるかっての宮の森・私の
自宅応接間に飾られていたふたりの絵画。
ともに油彩で、保次は緑主体の抽象絵画。
伸子は花と瓶の具象画。
ふたりの死後、私はこの2点を基軸にふたりの追悼展を
重ねてきた。
我が家の先々代からお付き合いのあった縁で、多分宮の森
に家を建てた1970年代に所有したと思う。
私が父の死に伴い帰郷した時すでにこの絵画は飾られていた
からである。
今はギャラリーの所蔵品としてテンポラリーに在る。
そして初めてこの2点をギャラリーに並べて時、今まで見え
なかったふたりの志(こころざし)が、カッコウとウグイス
のように木魂し合っているのを直観したのだ。
札幌固有の彩と光。
すると保次の抽象画の緑はフキノトウのように、伸子の
花の背景に深く濃く重ねられた黄彩が、福寿草の燃える黄に
見えてきたのだ。
ふたりは晩年都市ではなく、宮の森の山奥、山裾に満ち溢れる
この自然の光と彩を描き尽くそうと精進していたのだ。

80歳を過ぎ晩年の八木伸子が描いた遠い、懐かしい彼女の
サッポロ大通公園。
テナントビル群とテナントショップに埋められた小さなトーキ
ョータウンsapporoの現在からは想像もできない夢の風景だ。
重厚な石造りの洋館に立ち向かった青年のアンビシャス(野心)
年老いて遠く遙かな青春のサッポロを描いた女性のロマン。
ふたりは札幌を離れた事で発見した、都市風景ではない風土と
しての札幌原風景を光彩で表現しようと志したのだと思う。
抽象・具象などという区別を超えて、ふたりは&(アンド)で
結ばれ、優れて稀有な札幌という近代そして自然を生き抜いた
たのだ。

*八木保次・伸子展「札幌浪漫風景」-5月10日まで。
 月曜定休・6日(水)8日(金)午後2時まで。

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503




# by kakiten | 2020-05-02 16:39 | Comments(0)
2020年 04月 30日

八木保次・伸子展始めるー荒地(22)

春の恒例として展示し続けている故八木保次・伸子展を今年も始めた。
2012年2月、3月と相次いで80歳代で亡くなられた。
あらためて亡くなられてふたりの遺されて作品を見ると、生前
保次さんの抽象、伸子さんの具象と単純に分けて見ていた愚かさを
感じる事が多々あった。
そこで毎年春の時期に、ふたりが死ぬまで追求し描こうとした
札幌の光と彩を製作年代に拘らず、ご遺族の高橋均氏、友人の
小杉山、平川君の協力を得て、テンポラリースペース所蔵の
2点を軸に毎年展示する事を開始した。
生前はその時々の個展、グループ展でしか見れなかった作品
たちが、持ち主の好みによって傾向が自ずから分けられ一堂に
会すると、革めてふたりが追求してきた世界が新鮮に輝いて
見えて来るのだった。
今年はご遺族の高橋均氏のご協力で、保次がまだ具象画を心掛
けていた1946年から50年頃の終盤と思われる作品「建物」
を展示した。
そしてこの後抽象に転化した最初の作品も同時に並べた、
伸子の作品は、私の希望で昨年初めて見た「大通風景」という
80歳代に描かれた彼女の札幌原風景と思える作品を、保次の
旧北海道拓殖銀行本店の移設された一部と思える「札幌軟石
建物」の作品と並べて展示した。
ふたりの制作年齢は、保次が20代、伸子が80代である。
ふたりの具象画が札幌都市風景を画題に並ぶ事で、ある時代の
札幌浪漫・近代モダニズム都市風景が甦るのだ。
明治ー大正に啓かれ、開花しかけた日本の近代モダニズム。
その原風景ともいえる建物と公園が、浪漫に満ちて20代の男性
と80代の女性のロマンとして溢れている。

我々が、現代が、遠く彼方に追いやった美しい近代が、ここに
は輝いている。
ふたりが生きてきた戦前・戦後という昭和の時代でしか実現しない、
喪われつつある正当な近代遺産として、時代の記憶に遺され続け
ねばならない。

*八木保次・伸子展「札幌浪漫風景」-4月28日~5月10日
 月曜定休・5月6日(水)・5月1日・8日(金)午後2時閉廊。

 テンポラリ―スペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503


# by kakiten | 2020-04-30 16:27 | Comments(0)