人気ブログランキング |

テンポラリー通信

kakiten.exblog.jp
ブログトップ

<   2020年 06月 ( 3 )   > この月の画像一覧


2020年 06月 28日

後ろ姿-荒地(28)

最近はゆっくりと歩く所為か、前を歩く人の背中を
見る事が多い。
先日も若い男女が先を歩いていた。
その後ろ姿を見ていて、ふっとある事に気付く。
男は肩と背中が中心で、女は腰と脚に中心軸がある。
ふたつを上下一体にすると、人間という生物になる
気がした。
数式的にすれば、男✖女=人間である。
身体は自然にそうした抽象を孕んでいる。
✖は&でも良い。
そして年齢を重ねた身体の後ろ姿は、時にその人生の
生き様まで顕している時がある。
男であれば、肩も背中も狭く、手と足の振りは常に外向きで
肩ひじ張って歩く。
女であれば、肩・背中と脚・腰が同じ塊りとなってコロコロ
と歩いている。
特に男は、あまり真正面から会いたくないタイプだ。
かって自転車で通勤していた頃、北大構内のエルムトンネル
上の遊歩道を通っていた。
真ん中の通路が自転車専用で色分けされ、その両脇が歩行者
通路に分けられていた。
その自転車通路のど真ん中を、両手を外向きに振り左右を睥睨
するように歩いている初老の男性がいた。
何度か見かけていたので、自転車を擦れ擦れに横から追い越し
たら、後方で大きな声をあげ威嚇された。
緑燃える我が天地を邪魔しやがって、とでも言いたいような
車道の中心を歩く傲慢な歩き方が癪に障った。
歩道を自転車で突っ走るのに遭遇するのも嫌だが、森の遊歩道の
自転車専用ゾーンを我が物顔に歩かれるのも嫌だ。
二輪であっても自転車は車であり、車道を大手を振り外股で歩く
人などいないのが当然なのだ。
大通公園から植物園ー伊藤邸庭園ー偕楽園緑地ー清華亭ー北大構内
と続く緑の運河・エルムゾーンを全身で感じながら歩き、時に自転
車で風景を風で感じ走るなら、この都心に遺された自然風土にもう
少し謙虚な歩行であっても良いと思う。

しかし今にして想い返せば、私も自転車の煽り運転でもしたようで
気恥ずかしい気もする。

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503




by kakiten | 2020-06-28 15:10 | Comments(0)
2020年 06月 18日

一草一木の視座-荒地(27)

コロナウイルスは、地球生物としての人類に様々な<反>
を突きつけている気がする。
そのひとつが、ソーシャルディスタンスという言葉だ。
感染防止で人と人との間を保つ、という感染防止用語だ。
なにか何処かで聞いたような引っ掛かりがあって、ふっと
思いついた。
「親しき中にも礼儀あり」という格言だ。
この精神的な戒め概念が、ボデイの接触、感染防止の観点
から警告する言葉となって今、在る。
コロナウイルスのあっという間の世界的曼延が、人と物の
グローバル回路を通して展開されたように、「親しき中に
も礼儀あり」という精神概念は、病というボデイへの警告
となって今、在る。

薬屋、酒屋、米屋、洗濯屋、駄菓子屋、金物屋、本屋、等々
あらゆる地域のインフラをそこに住む人が担っていた時代
には考えられないタワー構造的一極集中分散拡大の物流社会
構造がもたらす観念がグローバリズムである。
薬屋はドラグチェーン店、金物屋は巨大な横文字のナントカ、
全国的に同名で展開する数社が支配する。
人と風土との結びつきは希薄となり、巨大なブランドタワー
構造支配・吸収が主流となっている。
公園の一本の名も知らぬ巨木に魅せられた私は、この一本の
樹が春夏秋冬移り行く立ち姿を、一草一木のこの地の風土と
共に見続ける。
同じ種類の樹とかいう、名前のブランドを見詰めている訳
ではないのだ。
人類は地球世界を、抽象・総括し概念化し支配化してきた。
人間社会の民族・国家間の争いに留まらず、現代は物流を
主流とするグローバリズムが経済活動という回路で世界を
席巻している。
それは一草一木という個々が消え、風土という地域固有の
自然環境が喪われていく事でもある。
コロナウイルスは、人間と物に住み着いて反世界の魔物の
ように人類に対峙している。

 *花人・花や展ー6月18日ー21日午後1時以降7時まで。

 テンポラリ―スペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503




by kakiten | 2020-06-18 16:06 | Comments(0)
2020年 06月 11日

樹・着る―荒地(26)

いつもギャラリーへ通う時近道に通る道角の公園。
先日ふっと立ち眩みがして休んだベンチの傍の大樹。
多くの緑の葉が茂っていた。
冬・早春の裸木の姿に感動したが、緑の衣装を纏った
夏の姿も良い。
樹が着物を纏っている・・・。
そんな気がした。
二年ほど前織りと染色をしている布の作家が初めて着物を
仕立て現代美術の画廊で展示したのを見た事がある。
作家の母上が亡くなり、初めて着物に仕立てたと聞いた。
お母さまの背丈、身体を想定をして織り上げ仕立てた気持ちが
見る方にも伝わる感動があった。
この時私は初めて日本語の<着物>という言葉の意味を理解
した気がした。
衣装でも制服でもなく、身が着る・もの・・・。
私たちはここ百余年の程の近代化によって、<身>という感覚を
忘れ、身はボデイへと変質しつつある気がする。
生まれた時からある目的性の有した服をボデイに纏って大人となる。
園児服ー学生服ー背広といった具合だ。
着るものの主体性が、身にはなく身はボデイのサイズ対象なのだ。
着るものとしての<着物>は、<身>が主体で、精神性・個性も
秘めていた。
そんな<身>の言葉はたくさん遺されている。
曰く、もっと身を入れろ、身に沁みる、身も心も、身の丈に合った、
身の程、身銭・・・。
人が主体で着るもの・・・着物。
あの公園の巨木は緑の着るものを、枝から幹から梢に至るまで
身に纏っていたのだ。
何の樹か未知だが、彼・彼女は身から出た固有の着物を着ている。

植物はどこか遠い日本人の姿・形のようである。
着物の裾が風で揺れる風情は、草花の姿に似ている。
裸木の幹・大枝、小枝、梢の立ち姿は羽織・袴の立ち姿に似ている。
それに比べ多くの洋服姿は、用途目的の明白な制服性を強く感じる。
鹿鳴館の夜毎の舞踏会で始まった日本の近代化の衣装性が、そう
させているのかも知れない。

コロナウイールスで露見した、人と物の物流のグローバリズムは
中国一地域で発生した流行病を瞬く間に人と物のグローバル回路を
通して、世界中へと伝染を拡大させた。
我々は今一度風土の固有性に目覚めなければならない、と思う。
グローバルはインターローカルな個の位相まで、あの一本の樹
のように<身>を正さねばならぬ。

 テンポラリ―スペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503


by kakiten | 2020-06-11 16:58 | Comments(0)