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テンポラリー通信

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2020年 01月 28日

高臣大介ガラス展始まるー荒地(9)

今の時期恒例の高臣大介ガラス展が始まる。
今年も1週目は各種器の販売。
2週目はインスタレーションで「野傍の泉池」8百本で
構成される。
札幌サクシコトニ川の源泉、知事公邸、植物園、清華亭に泉池
として湧き上がる泉をテーマに百本から始まったこのシリーズ
当初千本を目指す、と言っていたが一昨年の四百本から今年は一気に
倍の八百本となった。
しかしある意味では八という数字は日本人にとって最大を顕す数字
ではないだろうか。
八百万の神、八方塞がり、八百長、嘘八百、八百屋、八卦、八重
八方美人・・・。
どれも全方向、全量の最大数である。
そこまで作者が意識したかどうかは分からないが、今回がひとつの
集大成である気がする。

泉の水温は夏は冷たく、冬は暖かく感じる。
しかし泉の水温自体は年中変わらぬという。
そこから高臣大介は、千葉から移住してきた洞爺の気候風土の
相違を克服し作品に打ち込む何かを得たと語っていた。
俺は俺のエネルギーで環境に囚われず自分の作品に打ち込めば
良い・・・。
そこから始まった彼の創作エネルギーは、自らが湧き上がる泉
のように千本を目指す作品の一滴となったと思える。
私的な事だがこの間に結婚し子供をもうけ、父母・祖母を工房の
ある洞爺の地に招いたのだ。

地に根差した生き方と作品の幸せな合体。
これもまた彼の吹く作品の土。
そして花、と私は思う。

*‘高臣大介ガラス展「あふれでる」-1月28日ー2月2日「器を主に」
 2月4日ー9日ーインスタレーション

 テンポラリ―スペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503

 



by kakiten | 2020-01-28 17:09 | Comments(0)
2020年 01月 19日

大野慶人さんと「この道」ー荒地(8)

舞踏家大野慶人さんが亡くなられた。
大野一雄さんと共に、舞踏を国際語にまで知らしめた
勝れた舞踏家だった。
思い起こせば慶人さんとの忘れ難い記憶がふたつある。
一つは初めてお会いした1991年9月大野一雄石狩河口
公演の前夜祭打ち上げの席。
私の席に近付いて慶人さんが問うたのだ。
何故私は石狩河口で踊るのか・・と。
東京生まれ横浜育ちの慶人さんには、父一雄さんに従い
石狩まで来たものの自分なりの納得が欲しかったのだろう。
私は札幌の見えない川暗渠に沈む界川から始まった自分の
札幌への熱い想いを語ったと思う。
解ったと言って翌日「石狩の鼻曲がり」公演で見事な舞踏を
披露してくれたのを今も忘れない。
もう一つの記憶は、晩年生まれ故郷札幌に住んでいた歌舞伎学の
権威早稲田名誉教授の郡司正勝先生の自宅を訪ねた時の事である。
この日は実は郡司先生が慶人さんの為に書き下ろした台本「ドリア
ングレイの最後の肖像」の2回目の打ち合わせの日だった。
しかし郡司先生の急死でちょうど初七日にあたり、慶人さんは
独りでお詣りに尋ねて来たのだ。
そして私に郡司先生の家まで案内を頼まれた。
郡司先生は私の母校早稲田の教授でもあり、大野一雄の良き
理解者でもあったのでふらっと画廊に尋ねて来る事もあって
行き来があったのだ。
琴似川の支流源流に近い山奥宮の森のご自宅でお詣りを済ませ
タクシーで当時円山に在った画廊に帰る途中、北一条通りで私は
ふっと慶人さんに語った。
<この通りが北原白秋の「この道」の元になった道ですよ・・・>
すると慶人さんの顔色が変わったのだ。
自分が父の背中を追って舞踏の道を志した時最初の独り舞台で
使った曲が「この道」だったと言う。
そして郡司先生の「ドリアングレイの最後の肖像」初演の時、
スペインから来た振付師ジヨアンに使う曲を相談したら、この
曲が良いよと推薦したのも「この道」だったという。

郡司先生は大野一雄とはまた違う大野慶人の魅力を見抜いていたに
相違ない。
生涯2度の独り舞踏の両方に「この道」が選ばれたのは単なる
偶然であろうか。

私は死者を水葬しその度に汽笛を鳴らし、水母の群れが追いかけてくる
そんな海を渡って復員した父大野一雄と、10歳にして初めて暮らした
慶人さんの長い父子の時代の溝を想う。
そして石狩河口公演後、稽古場でいつも使っていたというプレスリー
の曲「好きにならずにいられない」を父一雄の死後一雄の指人形を
付け踊っていた慶人さんを想う。
米国黒船により鎖国を解き国を近代へと開いた明治・大正の日本。
初めて西洋ダンスに触れ、その身体表現を舞踏として戦後独りで
世界に発信した大野一雄。
生涯人前で父と呼ぶ事のなかった大野慶人。
この二人の父子の孤独な闘いは、エルヴィスプレスリーーの曲を
通して初めて<親身な>親子の真の近代という回路を開いた気がする。

二人の近代と現代の亀裂を乗り越えた闘い。
舞踏という近代が保つ戦前・戦後という亀裂を、子としての大野慶人
は繋ぎ、貫き、生きたのだ。
そして、3度目の独り舞踏を石狩川の支流・源流の眠る札幌の地で実現
したかった、それが石狩河口の大野一雄、源流の大野慶人の「この道」
として、私には口惜しまれる。

              -北海道新聞夕刊1月24日掲載原文

*高臣大介ガラス展ー1月28日ー2月9日
 前期1月28日ー2月2日・器展
 後期2月4日―9日「あふれでる」インスタレーション

 テンポラリ―スペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503


by kakiten | 2020-01-19 18:09 | Comments(0)
2020年 01月 09日

大野慶人さん・・・-荒地(7)

3日前横浜へ電話したばかりだった。
言葉にならない声音だけが短く受話機に響いた。
すぐ声が女性に変わって、話すのが今困難なのです。
でも段々よくなってきてます・・・と告げた。
私は今年必ず一度伺います、と伝えて電話を切った。
今日その大野慶人さんが亡くなったと連絡が来た。
深い気持ちが湧き上がる。
大野一雄・慶人というひとつの時代を想う。

1991年9月大野一雄石狩河口公演「石狩の鼻曲がり」で
初めて会い、その前夜祭の後慶人さんが話しかけて来た。
”何故自分は石狩河口で踊るのか、よく解らない・・・”
私は札幌から何故石狩河口まで繋げたかを、札幌円山の地下を
流れる暗渠の川界川から始まった都市と自然の共生のテーマを
熱く語った。
東京生まれ横浜育ちの慶人さんが父大野一雄に従い、石狩河口
の茫々たる大自然を前にしてそこで自分が踊る意味を卒直に
主催者である私に疑問をぶっつけてきたのだ。
今考えれば、太平洋戦争を体験し戦前・戦後というふたつの時代
を生き抜いて来た父と東京と横浜で育ち10歳で初めて父と逢った
子との見えない時代の深い溝がそこには在ったのだろう。
大野一雄は同年2月の吉増剛造展「午後7時の会話」で初めて
お逢いした時私の石狩河口公演の申し出を即座に快諾してくれた。
私は感動してこの公演のポスタータイトルを「石狩の鼻曲がり」
ではなく「石狩みちゆき大野一雄」とした程である。
生涯<父>と大野一雄を人前で呼ぶ事のなかった慶人さんの見えない
屈折が、今となって石狩河口前夜祭の問いかけで思い起こされる。

一昨年2月吉増剛造「舞踏言語」の出版記念会で、指人形の大野一雄
とともにプレスリーの「好きにならずにいられない」の歌曲でひとり
舞踏した慶人さんは、父一雄亡き後始めて肉親一雄を抱いていたと
私は思う。
日本の大きな意味での近代を生き抜いた大野父子。
近代開国の扉をアメリカの黒船がその扉を叩いたように、戦後アメ
リカを代表するポップ歌手エルヴィスプレスリーの歌曲が、ふたり
の父子の見えない近代の壁を開いたのだ。
戦争に拠って引き裂かれた父子の間に深く横たわっていたふたつの
近代という深い溝。
それはあたかも暗渠となった都市の川のように見えない血脈と
して流れていた。
自らの指の一部となって、共に舞踏した父一雄。
そこに、遮り、閉じて分離する近代はない。
あるのは伸び伸び流れ脈打つ舞踏という真の近代だ。

慶人さん、お会いしてお話ししたかったのは、その事です。
西洋のダンスを舞踏として日本近代に根付かせた大野一雄
さんの志を、慶人さんの舞踏としてもう一度見たかった。
郡司正勝先生が晩年最後にあなたの為に遺してくれた台本
「ドリアングレイ最後の肖像」を一緒に実現したかった。
源泉が源流となって沈んでいる札幌の街の中で。
あの指人形の一雄さんの河口への想いと共に。

お別れにプレスリーの「好きにならずにいられない」を
唱和させて下さい。

 海へと確実にそそぐ川のように
 流れに身をゆだねるべき時もある
 さあ手を取って、この命を捧げよう
 君を好きにならずにいられない


 テンポラリ―スペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503



by kakiten | 2020-01-09 15:54 | Comments(0)
2020年 01月 05日

寒気鋭くー荒地(6)

積雪は少ない。
しかしその分寒気が鋭く感じる。
手先の指が冷える。
利き腕の右の指先が時に青くなっている。
露出し、使う機会が多い所為もあるのだろうが、
通院で注射の際右手を看護師さんに暖められたりもする。

体調不調を書いたら、心温まるご心配のコメントを多々
頂いた。
特に医師でもあるOさんの忠告・助言には心当たりする
処が多かった。
最近の医師は、パソコン画面の患部を見て、肝心の患者
を思わない人が多い気もする。
私の不意の転倒にも、良い杖が沢山出てるよ、階段は
手摺りを使いなさい、筋トレをしたら、と言う医師もいた。
5時間の人工透析中私は左手を動かさず寝たまま出来る腹筋、
膝横倒立、股関節開閉等出来得る運動を試みている。
巡回の院長も、運動終わったか?と声を掛けるほど、もう
半ば公認されている程だ。
背丈より高い下履き棚、階段上り終わった後等の不意の意識
不明は、どう考えても脳・心臓に関わる気がしていた。
杖とか、筋トレ、手摺りの問題ではない。
素人の感じ方だが、ふっと医療に対して疑問を抱いていた。
Oさんの指摘は、その点でとても心に響いた。

現代はなんでも機械操作の時代である。
二本足の人間は機械操作で四輪の四つ足に回帰し、水・食料
・光・寒暖等の自然の恵みは、公共的、経済的社会インフラ
となって自然への畏敬・感謝の心を喪失しつつある。
電気力により増幅された他力は、等身大の自力から指先操作
の筋斗雲・如意棒の孫悟空のような傲慢な力を誇示する存在
となりつつあるような気がする。
社会構造的にも主(あるじ)という個の主体性が希薄となり、
オーナーという名の巨大な社会構造の部分に組み込まれる。
お客様は巨大販売構造の購買客のひとり、オーナーズカード
の一員で、街の薬局・米屋・洗濯屋・酒屋・雑貨屋・駄菓子屋
といった街のインフラを司った主は、大手コンビニのオーナー
となる。
宇宙・地球・自然という大きな生命の源さえ、大都市の世界では
環境というインフラとしか捉えられない時代なのだ。
戦後という日本近代の終焉現代の始まりの時、詩「死んだ男」を
詩集冒頭に記した鮎川信夫の詩は、その意味でも今も深く心に沁
みるのだ。

 たとえば霧や
 あらゆる階段のなかから、
 遺言執行人が、ぼんやりと姿を現す。
 -これが全ての始まりである。
 ・・・・・
 埋葬の日は、言葉もなく
 立ち会う者もいなかった。
 憤怒も、悲哀も、不平の軟弱な椅子もなかった。
 空にむかって眼をあげ
 きみはただ重たい靴のなかに足をつっこんで静かに横たわったのだ。
 「さよなら、太陽も海も信ずるに足りない」
 Мよ、地下に眠るМよ、
 きみの胸の傷口は今でも痛むか。

ここに記されている<空にむかって眼をあげ>ある時代の終わりを
告げるМの言葉。
<さよなら、太陽も海も信ずるに足りない>
この太陽と海には人間の<故里>が潜んでいる・
里山・里海・・・。
<空にむかって眼をあげ>-ひとつの時代の終焉に、死者は
呟いたのだ。
故里に<さよなら・・・>と。
私は私の戦後の時代が生んだ<さよなら>を想い出す。
しかしその言葉にはある決定的な差異がある。
<さようならと総括>ー奥浩平「青春の墓標」
学生運動でセクトの違った恋人へ遺した、さようならと総括。
<う>が情緒・未練なのだ。

現代の原点に立つ<遺言執行人>の<さよなら>には、もっと深い
響きがある。
故里の故(ゆえ)。
太陽と海にまで至る深い時代の傷口・・・。
75年前のひとつの時代の傷口が、2011年3月11日現代の
出発点として今を撃つ。

私達は限りなく緩慢な<さようなら>を生きているのか。

*川戸郷史ライブー1月12日午後5時~
*収蔵作品展「記憶と現在」-1月中旬~
*高臣大介ガラス展ー1月28日ー2月9日

 テンポラリ―スペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503



by kakiten | 2020-01-05 18:36 | Comments(2)