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テンポラリー通信

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2019年 09月 25日

秋・訪問者ー子の近代(6)

何年振りだろうか・・。
Aさんから電話が来た。
アメリカ・シアトルに在住の人だ。
ネットで調べ、テンポラリー通信を見つけ電話したという。
円山北町時代、多くの友人たちが集まった喫茶店の女性オーナー
だった。
1980年~1990年代だからもう30年近くなる。
アメリカ人と結婚してシアトルに行き、それから一度里帰りで
お子達を連れて会って以来だ。
私が今のところに引っ越してから、居場所が分からずにいたらしい。
父上の体調が勝れぬらしく、今度帰国した時寄ると話は終わった。

秋、なんだなあ~。
遠い近いに関わらず、人が尋ねて来る・・・。
今度訪問する予定の東北・石巻北上河口鮎川。
この鮎川という地名も私には不思議と地名の訪問者という感じを
与えられる。
かって20代に書いていた詩人の鮎川信夫を想い出させるからだ。
そして大野一雄・慶人さんの父子、斎藤周さんの父子と触れて
近代と現代の界(さかい)を個のうちに見詰めていた時、鮎川信夫
の戦後を代表する長編詩「橋上の人」を改めて読み返していた。
英国の詩人ヴァレリーに傾倒し戦後現代詩の地平を切り開いた
鮎川信夫。
日・米英の太平洋戦争下、自らのモダニズムを封印し、戦後米国
ならぬアメリカという共和国(ランド)への夢と理想を、後に封印
される長編詩「アメリカ」で熱く語った1947年の戦後時代。
そこに象徴的に「橋上の人」で<父>という呼び名で顕れる、鮎川
信夫の戦後近代。
明治以降の近代化=欧米化が日・米英戦争で失墜し、敗戦後米国が
アメリカ的開放として一瞬もたらした自由・平等・デモクラシー。
その戦前欧米モダニズムと戦後アメリカモダニズムの両岸を架橋する
日本近代が鮎川信夫にとっての「橋上の人」の位相だったと思える。
鮎川信夫にとっての近代とは、後の世代の私達にとっても深い踵の
位置に存する近代と思われる。
明治・大正・昭和のある一時代まで存したモダニズムを、鮎川は父に
例えて「橋上の人」Ⅶ章で幾度も呼びかけている。

父よ、悲しい父よ、・・・
父よ、寂しい父よ、・・・

父よ、大いなる父よ、・・・ 
父よ、大いなる父よ、・・・
父よ、大いなる父よ、・・・

この父の位相と、戦後すぐ1947年に書かれ消された長編詩「アメリカ」
の数行・・・。

 「アメリカ・・・・」
 もっと荘重に もっと全人類のために
 すべての人々の面前で語りたかった
 反コロンブスはアメリカを発見せず
 非ジェファーソンは独立宣言に署名しない
 われわれのアメリカはまだ発見されていないと

ここに私たちの今・現代と父なる近代の界(さかい)が立ち
顕れる。

米国・アメリカーシアトルから届いた一本のAさんの電話が
牡鹿半島の鮎川へ旅立つ前、鮎川信夫からの米国・アメリカ・
3.11、近代から現代への時の川150年余の橋上の人の声の
ように聞こえる。

*花小屋ー9月30日まで。

 テンポラリ―スペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503



by kakiten | 2019-09-25 14:26 | Comments(0)
2019年 09月 12日

東北から。東北へ。ー子の近代(5)

札幌にほぼ月一度ℍ大学出版の指導で来ている元東大出版会代表の
竹中英俊さん。
今月も仕事で来て今日寄ると連絡があった。
夕刻2階事務所にいると、入口で声がある。
あっ、来たなと思い階下に降りると、背の高い別人だ。
なんと、秋田の民芸・海青舎の三浦正宏さんではないか・・・。
1990年代円山北町に今のテンポラリーや器のギャラリーが
あった時、毎年全国の民芸作品を展示していた人である。
北海道工業大学で橋梁工学を専攻し、建築会社に一時務めたが
橋を自然の中に多く構築する事は自然破壊と感じて退社し、故郷
秋田市で民芸の店を立ち上げた。
北海道工業大学の恩師菱川善夫先生に相談し、私の所を紹介され
訪ねて来たのが縁の始まりだった。
菱川先生が名付け親となり、彼の民芸の店は「海青舎」として出発
し、その後毎年器のギャラリーで秋田民芸の展示を催す事となる。
秋田の民芸を基本に後年は全国の民芸品を、主題を定め蒐集し展示した。
例えば<祈り>を主題に各地に遺る民芸の造形とか、時に秋田の駄菓子
展や地酒の展示とかも企画した。
それらが好評で、毎年初日オープン前に人が待っている事も出現した。
その後私は現在の北18条に移転し、関係が途絶えていたが、一昨年
北海道近代文学館で民芸の祖柳宗悦展があり、柳が推進した民芸運動の実物
として三浦さんの蒐集した民芸品の多くが同時に出品された。
かって展示で記憶されていた多くの優れた各地の民芸名品が会場に
展示されたのだ。
そのオープニングで十数年ぶりに私は三浦さんと再会した。
最初に発した言葉・・・。
”ほとんど、円山の器のギャラリーに展示したものですよ・・・。”
彼は時にこのブログを読んでいたらしく、昨日意を決して今回訪ね
て来た。
来年ここで展示をしたい、その気持ちを伝える為である。

再会の話をしていると、竹中氏も訪ねてきて三浦氏を紹介する。
竹中さんにも何度か彼の話はしていたので、直ぐに打ち解ける。
竹中氏は宮城県の出身、同じ東北地方の出だ。
竹中氏の古書蒐集の話と書物への愛は、どこか三浦さんの民具蒐集と
民芸への愛と共通する。
掌(てのひら)を通した人と物の関係性として共通する。
そんな事もあって、とても初対面とは思えないふたりだった。
和紙の書物は本来人の掌を通して紙が馴染み、掌の脂が紙を丈夫にし、
風合いを増し長持ちさせるという。
民芸もまた人の掌(てのひら)を通して使われ、掌(たなごころ)に
磨かれ存在する。
根本的にはある時代まで人と物とはそうした掌の関係性に於いて繋がり
存在したのだ。
ふたりの今回の偶然の遭遇は、人と物の深い関係がそのまま人間関係
として実現した必然のようだった。

吉増剛造さんが、宮城県石巻市北上河口鮎川に滞在し制作している。
遺された古い商店の民家に住み込み、写真で見るとまるで商店主の
ように座り訪れる人を迎えている。
客は吉増さんの制作を見、話し、食を共にし、一泊して一日を
共に過ごすという。
全身詩人吉増剛造ならではの、3・11の爪痕が今だ遺るという
北上河口での全身試行・生業(なりわい)の行である。
3・11以降戦後吉本隆明の処女詩集「日時計篇」に真摯に向き合い、
自己の戦後近代を見詰め直してきた吉増さんの全力投球の現在なのだ。
re born art festival 2019と名されたこのイヴェントは、中沢新一はじめ
7か所の地域に7人のキュレーターが企画し作家が制作し作品展開されて
いる。
その内の鮎川という牡鹿半島の先端地域が吉増さんの滞在地だ。
地域全体のパスポートが送られて来た。
吉増さんからの招待だ。
女坑夫さん記載の夕張「北上坑」看板出現以来、北上河口へは行かねば
ならぬと心に決めていた。
1991年秋「石狩の鼻曲がり」大野一雄石狩河口公演。
1994年初夏「石狩シーツ」吉増剛造夕張行「女坑夫」遭遇。
山奥の夕張石炭坑道口に記された「北上坑」の名と共に在った女坑夫の
記載。
石炭という近代エネルギーの産炭地から、現代のエネルギー石油と原子力
貯蔵の河口へ、女坑夫さんと共に、私も行かねばならぬ・・・。
そんな気持ちがしていた。
亀井文夫監督「女ひとり大地を行く」では、主人公の女坑夫さんは
東北出身と設定されていた。
「北上坑」と名付けられた坑道の被害者の中に北上川流域の出身者も
いたかもしれない。
そんな想いで吉増剛造の「石狩シーツ」のコア<女坑夫>さんとともに
北上川河口へ、吉増剛造を尋ねよう、と想い立っている。

近代以前の深い物と人の回路、古書と民芸。
それが東北秋田と宮城の人の姿をして訪れて来た。
そして宮城の北上川河口3・11が、現代の根のように呼んでいる。
私にはそんな気がするのだ。

*花小屋ー9月末まで。

 テンポラリ―スペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503






by kakiten | 2019-09-12 15:47 | Comments(2)
2019年 09月 08日

鮎川信夫の父・位相ー子という近代(4)

大野一雄展、斎藤周展に触発されて戦後詩人鮎川信夫に
想いがいった。
鮎川信夫にとっての父とは何だったのか、という問いである。
たびたび引用した戦後詩を代表する名作「橋上の人」には
その父を主題とする(Ⅶ)の詩章がある。
 
 父よ、
 悲しい父よ、
 貴方がいなくなってから、
 がらんとした心の部屋で、
 空いた椅子がいつまでも帰らぬ人を待っています。
 寒さに震えながら、
 貴方に叛いたわたしは、
 火のない暖炉に向かいあっています。
 父よ、
 寂しい父よ、
 わたしはひとりです。
 妻も子もなく、この広い都会の片隅で、
 固いパンを齧っています。
 わたしは貧しい、
 わたしは病んでいる、
 貴方がわたしに下さったものはこれだけですか。

1965年出版された荒地出版全詩集では、「父の死」という
21行ほどの短い詩がこの「橋上の人」の後に載せられている。
この詩は実際に父が死んだ時の心の動揺を伝えている詩だ。
では長編詩「橋上の人」の<父>とは、何の謂いなのか。
それは私には鮎川信夫の内なるモダニズム・近代の謂いと思われる。
徴兵され一兵士として日米戦争に参軍し帰国した鮎川自身の深い想い
が、戦前のモダニズム・<父>という比喩になっている気がする。
欧州の独裁国家ドイツ・ヒットラーとイタリア・ムッソリニーと三国
軍事同盟を結び、米英に宣戦布告をし始まった太平洋戦争。
明治以降の西洋化・欧米化・近代化の流れは鬼畜米英のスローガンの下、
鮎川が詩の上で傾倒し実践したモダニズムの灯は、正に踏みにじられたのだ。
大野一雄も鮎川信夫も、その詩のその舞踏の領域に於けるモダニズムの
灯をモダニズムの焦土の近代から身を以て耕し、育て続けたのだと思う。
戦後近代とは米国占領下の自由の理念の下、朝鮮戦争の新たな東西冷戦
により特需景気ー神武景気と経済の発展で明治近代の破綻・戦後近代の
迷妄と再びモダニズムの根幹を埋没しつつあった。

鮎川信夫や大野一雄が戦前戦後を通底し身を以て遺した、真の近代の芽を
私達は私達自身の内なる根として忘れてはならない、と思う。

 教えて下さい、
 父よ、大いなる父よ、
 わたしにはまだ罪が足りないのですか、
 わたしの悲惨は貴方の栄光ですか。

私たちの現在という時代には、先んずる痛恨の父という近代が存する。
そこを見詰めずして、真の現代はあり得ない。

*花小屋ー9月末まで。

 テンポラリ―スペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503



by kakiten | 2019-09-08 16:40 | Comments(0)
2019年 09月 05日

斎藤周展終わるー子の近代(3)

山が開いて内なる源流の一滴が、沢となり渓流となる予感のような
個展だった。
気難しいやんちゃな子という個室が、父という外界を認め開いた今
という近代への架構。
大上段に振り翳した時代論ではない。
父・子の小さなボタンの穴。
そこに深い心の個人的な理由が潜んでいる。
何時だって本当の時代とは、そうして訪れる。

私にもそうした記憶のボタンがある。
父に説教され拳骨を浴びそうになった時、母が発した言葉。
”お父ちゃん、もう時代は変わったのよ!”
母が近所の美容室で赤い髪に染め、活き洋々と家に帰って来た時
父・祖父にひどく怒られ、しょんぼりして元の黒い髪に戻しに行った時。
成人してその話を母にしたら、”変な事おぼえているわね・・”と言われた
記憶。
父が新しい学習机と椅子を手造りで造ってくれた時、傍で偶然見て
いた近所の同級生が、翌朝学校でみんなに学習机を購入しないで、手で造
ってた、とみんなの前で馬鹿にした時、そいつを思わず殴った記憶。
どれもが私の戦後近代が始まった遠い記憶なのだ。

明治30年創業の老舗を守りつつ、新たな風を業界に吹き込み
生業(なりわい)の世界を広げた父の戦後近代。
父の死後市街地再開発のさらなる時代の変化に、家業よりオーナー
として世界を広げようとした母の戦後近代。
<家>=土地・家屋資産が比重を増す時代に、<生業>は、ビルの
片隅に埋もれていった現代。
店主も客もオーナーと呼ばれ、今はその浸透度がさらに増している。
そんな時代に、遠い小さな個人的記憶のボタンの穴は、本当の時代を
見通す回路を想い出させてくれる。
量産された学習机セットを購入するのが普通になった時代。
その時代に私の為に手で木を削り組み立てた父の新しい学習机・椅子。
幼い心にも、私はそこに父の愛情を感じていたのだ。
”時代は変わったのよ・・・”と、父を諫め、時に髪赤くを染めた母。
そのどちらもが、私の遠い父なる、母なる近代だ。

・・・
 ポケットのマッチひとつにだって
 ちぎれたボタンの穴ひとつにだって
 いつも個人的なわけがあるのだ

                (鮎川信夫「橋上の人」から)
 
 彼方の岸に灯がついた。
 幻の都市に灯がついた。
 運河の上にも灯がついた。
 おびただしい灯の窓が、高架線の上を走ってゆく。
 おびただしい灯の窓が、高く夜空をのぼってゆく。
 そのひとつひとつが瞬いて、
 あなたの内にも灯がともる。
 死と生の予感におののく魂のように、
 そのひとつひとつが輝いて、
 そのひとつひとつが消えかかる、
 橋上の人よ。

                 (同上最終章から)

この戦後間もなく発表された鮎川信夫の「橋上の人」は、戦後近代が
今に続く光景のように、瞬いている気がする。
周さん、私達もまた親なる近代から現代への「橋上の人」・・・。

*「花小屋」9月7日~30日。不定期・非展示。

 テンポラリ―スペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503
 


by kakiten | 2019-09-05 16:38 | Comments(0)