人気ブログランキング |

テンポラリー通信

kakiten.exblog.jp
ブログトップ

<   2019年 08月 ( 4 )   > この月の画像一覧


2019年 08月 31日

父という近代・標(しるべ)ー子の近代(3)

描線が何かを発している。
山裾から山頂に上がる視線ではない。
頂きから山裾へ、溢れ出て流れる描線だ。
今回の斎藤周展のモチーフ。
三角の山のようなモチーフが多々顕れている。
しかしこの山のモチーフは、仰角の視線ではない。
頂点から裾野へ拡がる展開の兆し。

数年前広い山裾を登る人の後姿の絵があった。
先頭を行くのは大人の男。
その後に女性と少年の後姿が続いている。
次に発表された個展覚書で、ニセコ・ヒラフで少年時代父と行
ったスキーの記憶が懐かしく語られていた。
そして昨年初めて父の建てたアトリエ兼住宅の木造2顔建て
の実家が描かれた。

同じ絵画の道を歩んだ父と子。
父の時代、近代日本は米国占領によって齎された民主主義の
理念の下戦後近代という時代が始まった。
地方自治が民主主義のひとつの大きな柱であり、院展・帝展に
代表される中央主体の美術公募組織から、地方独自の公募展が
生まれた。
北海道では、道展、全道展、新道展等々が設立された。
斎藤周さんの父上もそうした組織に属しながら絵画活動を続けて
いた。
子の周さんは、そうした組織に馴染まず、個としての活動を主に
絵画を描き続けていた。
そんな親子の見えない確執が、親子という繋がりよりも、社会的
意識の相違として父・子の間に在ったように思う。
何時の時代もそうした世代差・時代差はある。
しかしながら国家・社会の環境差は、父・子の決定的な差異ではない。
一昨年何十年ぶりにニセコの山でスキーをして身の内から沸き起こ
った父との記憶。
それが彼の育った父の建てた家の記憶に繋がる。
2階建て木造のアトリエ兼住宅を翌年絵画で再現させたのだ。
ニセコの山を先頭で歩く父。
楽しかった父子のゲレンデスキー。
父・子の時代的・社会的価値観ではなく、純粋に父の個の生き方で
あり、自分の生き方である、個としての視点から、父を再発見し、
溢れ出てきた心が、父の山・頂上の一点から溢れ出、流れる描線なのだ。
特に今展示のメイン大作には、その描線が大樹の根のように奔放に
強烈に溢れ出ている。
自己の源流の一滴が、まるで渓流となるように、父も含めた同時代
の大河へと流れ出したようだ。
父なる山が、父なる木造2階建ての家が、己の原点として、同時代
に向け発している。
父という近代を、個として感受し、認め、敬い、子の近代は磁場と
なって発している。
今回の展示は、国家・社会・時代に囲繞された近代ではなく、個の
裡から発した根枝のような斎藤周の父なる近代であり、彼の現代を
生きる標(しるべ)でもあるのだ。

斎藤周展「標」(しるべ)展、明日まで。

*斎藤周展「標」-9月1日まで。
 am12時ーpm7時

 テンポラリ―スペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503


by kakiten | 2019-08-31 15:00 | Comments(0)
2019年 08月 27日

身(み)という事ー子の近代(2)

最近病を得てから、「身」という事を感じ、考える。
結論から先に言うと、<ボディ>ではないという事だ。
身も心も・・というが、身は心と一対である気がする。
対峙概念ではない。
もっと身を入れろ、身の丈にあった、身空・身の上、
身に沁みる、・・・等々。
身は精神的な事と深く関わって表現される。
フィジカルーメタフィジカルではない。
国家・社会・時代といった人間社会のインフラ環境を基底的に
超えた<身>という、個を起点とする人間が在る。
その人間の身から発する行為が、大きくいって表現という
生命の為す行為なのだろう。
国家・社会・時代に添って為す行為ではなく、身の内から
湧き出す源泉・源流のような、行為なのだ。

明治・近代化とともに生まれ育った大野一雄が、西洋舞踏の
表現に憧れ志しながらも、国家・社会・時代に囲繞され、身
も心も戦場へと拉致された青春。
そこから敗戦後這い上がり、舞踏という近代を、世界に発信し
続けた、身一つ・個の近代。
慶人さんは、親との国家・社会・時代の相違に翻弄され、10歳
で初めて見た少年期から父と呼ぶ事なく103歳の大野一雄を看
取ったという。
しかし死後10年近い歳月を経て、父を模した指人形を翳し
晩年父が愛した戦後米国を代表するエルヴィス・プレスリー
の歌曲「好きにならずにいられない」をバックに追悼した
真摯な舞踏には、指という身の一部になった父への、本当に
肉親への想いだけが、そこに何の隔たりもなく手を取って踊
っていた。
この静かな、動きだけ、指先の父を見詰める子の表情だけ、
の舞踏に、身も心も凝縮し結晶したふたりの時間が生まれていた。
慶人さんの表情は、父を想う心そのものだった。

近代とは、父や母の姿を模して顕れる。
現代とは、子の姿で問われるのだ。
近代・現代を繋ぐ回路は、<身>という生命の個。
時代・社会とは、そこから創り出す広がり、展開なのだ。

斎藤周さんの前々回からの絵画表現に、ふっと同じ絵画の道
を歩む父・子の近現代を垣間見て、<身の上>話のように
語ってみたかった。

*斎藤周展「標」-9月1日(日)まで。
 am12時ーpm7時:水曜28日午後3時閉廊。

 テンポラリ―スペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503


by kakiten | 2019-08-27 13:46 | Comments(0)
2019年 08月 25日

斎藤周展始まるー子の近代(1)

前回ここでの個展では、斎藤周さんの幼少時の家屋がメインにあった。
父上の建てた木造二階建てのアトリエ兼住宅。
その家屋を懐かしさと愛情に満ちた筆致で描いていた。
その前に先立つ個展では、父とよく行ったニセコ・ヒラフのスキー場。
そこでの楽しい少年期の思い出が蘇り、長年の父子の美術家としての
対峙が消えて伸び伸びと描かれた山が出現していた。
幼少期過ごした家屋の絵画は、斎藤周の絵画歴で初めての事だ。
大野慶人と一雄父子に倣えば、この家屋は慶人さんの父を模した
指人形のように私には思える。
そしてニセコ・ヒラフのスキー場は、慶人さんが指人形で踊った
背後の音曲エルヴィスの「好きにならずにいられない」だ。
肉親としての父子が、国家社会の時代区別を超えて繋がり再生した
のだと思う。
形(かたち)と容(かたち)。
外的要素から見える形(かたち)と、内面から発する容(かたち)。
斎藤周さんの画業も時代社会という外在的要素から生まれる父子の
違い・対峙から、生き方・思想という内面的位相から父を見る容貌
という容(かたち)の顕れに転位してきたと私は思う。
今回の個展では、より自己に忠実に内面に根付いた根の分かれ、梢の
枝分かれのように裾野が開いている。
形容でいうと、形的には今までに無い細長い横長のキャンバス。
そこに描かれた長い山裾の山の容(かたち)。
画業を通して在った、父・子の繋がりと違い。
ふたたびの出会いが、ある成熟を保って今窺われているのだ。
洋画という近代が、父子の内面の葛藤を超え、開かれている。
こうした個の内面こそが、すべての出発に存する。
そこを抜きに真のかたち(形・容)は生まれない。
斎藤周のこの転位を、私は、嬉しくそう思う。

大野慶人さん、斎藤周さん。
戦後世代に、個として正当な近代が芽吹いている。
それこそが、我々の正当な現在。
現代へのホップ・ステップ・・・だ。

*斎藤周展「標」-8月23日(金)-9月1日(日)
 am12時―PМ7時:月曜定休日;28日水曜日午後3時閉廊。

 テンポラリ―スペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503



by kakiten | 2019-08-25 15:40 | Comments(0)
2019年 08月 04日

体制としての近代ー大野一雄の戦後(11)

1929年大野一雄23歳、帝国劇場で初めてラ・アルヘンチーナ
を観に行き強烈な感動を受ける。
戦前昭和モダニズムの最後に近い時代・大野一雄舞踏の源流。
その源流は国粋化・戦争で踏みにじられ、流れはショートカット
され暗渠と化す。
大野一雄にとって敗戦後の近代化とは何だったのか。
明治以降の近代化・西洋化・欧米化の流れは、敗戦後米国の占領下
で米国化・民主主義が主流の近代化が進んだ。
今ある現在の社会的下地が、体制インフラとして整えられたのだ。

そこでふっと思い出した言葉がある。
三公社五現業である。
内容はもう不確かなので、古い辞書で調べる。

三公社ー国有鉄道・電信電話公社・タバコ・塩専売公社
五現業ー郵政・国有林野・印刷・造幣・アルコール。

今はほとんどが民営化された国家事業である。
そして官の体質を今も色濃く残す企業体だ。
こうして観ると、官の時代よりも民の時代の今の方が、より
官の体質が濃くなっている気もする。
最近の簡易保険不法勧誘問題を見ても、そうだ。
公社の<公>意識がお上(かみ)の目線で、パブリックという
<公>ではないままの気がするからだ。
アメリカが民主主義・デモクラシーとして植え付けようとした
公概念は、民を基底とする公(おおやけ)だった筈だ。
生活の基底を為す三公社五現業の公的位置は、民営化される前
の方がまだ社会奉仕的存在だった気がする。
民営化とはある面でアメリカ化・物流至上化であり、公から
民間企業の利益追求の現在として今がある。
新幹線・リニアカーに奔走し、JRタワーに象徴される国鉄に
それが顕著だ。
電信電話公社もまた然りである。
戦後の近代化とは、アメリカ化に象徴される近代でもある。
多国籍国家体であるアメリカは、ネーションという一民族を
主体とする国家ではなく、多国籍民族のランドとして成立し
ている経緯がある。
従ってその理念は、自由平等の民主主義が基底にあり、食物で
いえば、缶詰・トースト文化なのだ。
イギリスパン、フランスパン、ドイツパンのような民族個性は
薄く、平等なカット、トーストパンのような均一性が本質に在る。
アメリカンドリームが一攫千金であるように、多数決原理の普遍
風土が建国時から基底にある。
米国型民主主義とは、文化の保つ民族固有の個性とは合致しない。

大野一雄はそうした戦後文化の中で、日本固有の歌舞伎の伝統
女形・衣装の早変わり等の伝統文化を継ぎつつ、ダンスならぬ
独自の舞踏を創りだしてきた。
インフラとしての国家社会を通底し、宇宙・地球自然の地平に
立脚した生と死を往還する舞踏を続けていた。
グローバルという米国型物流の国際化ではなく、インターナショ
ナル、インターローカルな国際化を試みたと私は思う。
人類という人間に届く、公(おおやけ)の為の舞い・舞踏。
故郷函館で生まれ得た大野一雄の近代モダニズムは、エルヴィス
の唄・詞・曲を掴み大野自身のアメリカ・ランドを彼の戦った米国
から解放したと思える。

2010年6月死去した百三歳大野一雄は、その一年後の3月11日
東日本大震災、未曽有の災害を起こした原子力発電所事故をどう思
っただろう。
1945年8月破壊と廃墟の原子力・爆弾。
2011年3月人が消え無人の町を生んだ原子力・発電事故。
鬼畜米英の旗の下、平和利用の名の下、原子力による破壊。
戦後近代も破壊の形を変えた戦争、効率という名のショートカット
固有文化の暗渠化が露わになったのではないのか。
大野一雄の歩んだふたつの近代を、私たちは如何に受け継ぎ生きて
行くか、それは今も問われ続けている。


*追悼・大野一雄展ー8月18日まで。
*斎藤周展ー8月23日(金)-9月1日(日)

 テンポラリ―スペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503





by kakiten | 2019-08-04 16:56 | Comments(0)