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2019年 06月 29日

近代と現代の界(さかい)-大野一雄の戦後(5)

札幌を代表する樹にポプラがあるように、ライラックの咲く
季節をリラ冷えと表するように、明治以降欧米から渡来し地
に根付いた植物は多々ある。
野菜・果物として根付いたキャベツ、トマト、メロン、アス
パラガス。改良され多くの品種が育てられたリンゴ。
これらはドイツ系米人ルイス・ベーマーによって根付き、改良
された野菜・果物である。
ジャガイモやスイートコーンの普及もベーマーが関わっている。 
近代化とは衣食住のすべてに新しい風を吹き込んだ。

そんな近代と共に生まれたた街、函館・横浜・神戸。
そのひとつ函館で1906年10月27日大野一雄は生まれた。
大野慶人は1938年東京で産まれ、その年父一雄は再招集され
戦場へ赴く。
1946年大野一雄は捕虜生活を終えて帰国し、家族と再会。
直ちに江口・宮舞踏研究所の物置を改造しひとり住む。
1948年家族と共に横浜に移り住む。
大野慶人が回想しているように、この年10歳にして初めて父
と暮らす生活が横浜で始まったのだ。
1929年23歳の時見た帝国劇場アルヘンチーナ来日公演
の鮮烈な感動。舞踏への熱い志が、再び動き出す。
翌年江口・宮舞踏研究所から独立し大野一雄舞踏研究所開設。

大野一雄「百年の舞踏」-大野一雄舞踏研究所編の年譜から
拾った大野一雄の激動の近代の流れ。
1949年独立から遡る1929年アルヘンチーナ公演感動
の20年。
その狭間に明治以降の近代化と破綻、そして戦後近代の傷だらけ
の出発が大野一雄父子の人生の節としてくっきりと顕れている。
外来し根付いた樹や野菜や果物のように、真っ直ぐ近代が根付か
ない人間の近代社会。
しかし大野一雄は自らを根付かせたのだ。
ダンスではなく、舞踏という語を世界が認めたように。
日本伝統の白塗り・ジョンガラ・早変わり、そして年齢を超えた
女性衣装の表現。
近代の底辺を支える<根の百年>。
私達はその精神を植物のような源泉の森として、近代から現代へ
その界(さかい)の時代を引き継がなければならないと思う。

*大野一雄追悼「一雄&エルヴィス」展ー6月30日まで。
 第二部として延長「追悼・大野一雄の近代」展7月2日ー7月14日まで。

 テンポラリ―スペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503









by kakiten | 2019-06-29 17:07 | Comments(0)
2019年 06月 25日

深い夢・眼差しー大野一雄の戦後(4)

空(カラ)の白い額縁の中から顔を覗かせ手を伸ばし、
初めて未知の世界に触れる。
生まれたばかりの命、包む膜を破り・・・。
石狩河口流れる水の中で、魚卵から誕生の舞踏。
命の源流の一滴のような、大野慶人の秀逸な舞踏だった。
大野一雄の鮭の雌・雄の産卵と死の舞踏。
その間河中で演じられた慶人の顔と手だけの 舞踏シーンは、
今見ても心撃つ。
<命の源泉に戻って・・・>と、大野一雄は終演後冒頭の挨拶
で最初に観客に語りかけた。
この時すでに齢86歳。
台風通過後の余波・風の残る河口の浜。
大勢の観客に風の冷たさに気を配りしながら、二曲のハワイの曲
に合わせずぶ濡れの衣装のまま舞台に這い上がり、アンコールに
応えた後の挨拶だ。
河の流れの中青年時代舞踏を志した舞姫、あの世のアルヘンチ
ーナになり、大野一雄の命の源泉の舞踏を終えたばかり。
個として舞踏に憧れ、志した若い源泉の時。
そこから小さな流れを創り社会・時代という大きな川・海へと
目指した青年時代。
それは世界を覆ったファシズム・国家主義の時代によって、個の
流れは暗渠化されショートカットされて、戦争という閉塞の世界
に陥る。
戦後戦場帰還から死の直前まで、大野一雄は舞踏を通して再生し、
世界との生命の回路を回復し維持しようとした。
その源泉は、自らの生きる源流・支流の一滴。
舞踏への想いの確認・展開だったのではないだろうか。
そして時代の支(志)流として戦争によって中断された、清冽な
流れの再生だったのではないか。
日本文化の歴史、故国の文化の大河に掉さし、地球・世界という大海へ。
暗渠化され、ショートカットされた流れを、深く源流から再生する事。
そこに人間社会を超え、生命として在る地球生命への賛歌に至る深い命
への視座も開かれていたと思う。

海抜ゼロ。
深さも高さもゼロの大河の河口の浜ーモ・ライ(静かな・死)。
真っ赤なゼロ・夕陽の沈む昼夜の界(さかい)。
この大自然の残る石狩河口公演で大野一雄は、長い戦中・戦後の最後
の衣を脱いだと思う。
エルヴィス・プレスリーの「愛さずにはいられない」は、そうした
大野一雄の戦後の終わりを告げる、アメリカの転位の象徴、詞・曲
唄だったように思える。
そしてそれは同時に10歳で初めて会った父、生涯父さんと呼ぶ事ので
きなかった大野慶人が、一雄の死後エルヴィスの詞・曲をバックに父
を指人形として舞った時、その手・顔すべての表情にふたりを隔てて
いた戦争の距離が消えた時でもあった。
それはあの川中で見せた白い額縁の中から覗く卵の手・表情に重なり、
父・子の自然の情が深く湧く源流のように溢れ出ていたからだ。

戦争の近代がひとつ終わったのだ。
ふたたび個の源流域から、個の、志・流へ。
そして同時代という広い大河・海へ。
一雄&エルヴィスは、海へ注ぐ一雄の新たな大河への道程。
明治近代から戦後・近現代への架橋であった、と私は思う。

*追悼大野一雄「一雄&エルヴィス」-6月30日(日)まで。
 am12時ーpm7時:水・金曜日;午後3時閉廊。

 テンポラリ―スペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503
 





by kakiten | 2019-06-25 15:43 | Comments(0)
2019年 06月 22日

源流としてのモダニズムー大野一雄の戦後(3)

舞踏家と詩人のモダニズム、
奇しくも同じように戦争ー敗戦を経験し、深い近代の亀裂を抱いて
現代の坑口に立っていた。
敗戦後の帰国途上、海の上で。

 船はいつか
 黒い海のうえを走っている
 太陽はかたむき
 とおくの水平線は
 青空の無のなかに溺れようとしている 
 ・・・・・
 海底には
 何万という水兵と
 ゆうに一連合艦隊が沈んでいる
                   鮎川信夫「消えゆく水平線」

大野一雄が帰国の船の中で経験した話。
後に「水母の踊り」として演じた。

 一万トンの船に何千人と乗って日本に向けて出発する。
 その時にいろいろな人が、「これから出発する、元気を
 出してやろう」と言うのだけれども、次から次へと人が
 死んでいく・・・
 ニューギニアの帰り、生者と死者たちの体験。
 多くの人が船中で死んだ。
 水葬をして帰って来た。

                  「front」誌1999年1月号

T・Sエリオットを愛読し、新たな詩の可能性を試みていた鮎川信夫。
アルヘンチーナに憧れ、新たな舞踏の道を志していた大野一雄。
そのふたりの近代の道が日米戦争で閉鎖され徴兵され、敗戦の途上
で体験した死者の海。
この生と死の体験が、ふたりの近代には深い海峡のように
横たわっている。
戦勝国米国が故国を占領し、新たな近代化が進められる日本。
その新たな時代の始まりに、鮎川信夫は長編詩「アメリカ」を書き
、自身の内なる近代・アメリカを抽出し、訣別し、対峙していた。

 ・・・
 僕は眼をかがやかし涛のように喋りかける
 だがあたりには誰もいない
 空虚な額縁のなかで白い雨が乾いている
 無言で蓄音機のレコードが回転する
 「アメリカ・・・・」と壁がこたえている
 ひとり占いの賭博者のように
 眉をひそめて手のなかのカードを隠してしまう
 あらゆるエイスの価値と
 護衛付きのキングと慰めをあたえるクインの価値とが
 頭のなかでごちゃまぜに縺れる
 「アメリカ・・・」
 もっと荘重に もっと全人類のために
 すべての人々の面前で語りたかった

そしてこの後に続く後年消された三行は、明治以降の近代化=
西洋化の憧れと吸収の深い亀裂体験を伝え、現代に連なる界
(さかい)の橋のように心撃つ。
 
 反コロンブスはアメリカを発見せず
 非ジェファーソンは独立宣言に署名しない
 われわれのアメリカはまだ発見されていないと

近代から現代へ、
その界(さかい)の境界にある近代の端(エッジ)。
それが鮎川信夫の<アメリカ>だ。

一方大野一雄にとっての<アメリカ>とはより個として、息子
慶人さんのエルヴィス・プレスリー唄・曲の指人形の舞いに
大野一雄のアメリカが初めて顕れていると思える。

LiKe a river flows surely to the sea
Darling so it goes some things are meant to be
Take my hand,take my whole life too
For i can,t help falling in love with you

海へと確実にそそぐ川のように
流れに身をゆだねるべき時もある
さあ手をとって、この人生を捧げよう
君を好きにならずにはいられない

二度繰り返されるこのフレーズに印象的なのは、海と手である。
海に続く川、そして手に続く人生・命。
戦後近代と現代の界(さかい)、戦後のアメリカを代表するプレスリー
のこの歌曲を大野一雄は1991年秋の石狩河口公演以降稽古場で流
し、さらに祖父・父の働いた漁場カムチャッカで公演を夢みその公演
にこの歌曲をと、熱く晩年に語っていた。
鮎川信夫が夢みたアメリカ。
その夢が大野一雄にもエルヴィスの唄・曲とともに訪れて
いた気がする。

鮎川信夫の「アメリカ」最終章に近く記された詩行・・・。

 憐れむべき君たちの影にすぎぬ僕は
 きちんとチョッキをつけ上衣を着て
 テーブルに凭れて新しい黄金時代を夢みている
 いつの日か 僕らの交わす眼ざしや
 なにげない挨拶のうちから生まれる未知の国民のことを・・・
 
ふたりのモダニズム、ふたりの近代の深い亀裂。
そこから戦後近代ー現代へと橋渡しされた心の架橋は、個と
して支流の、源流への想い。
そして大河・海という広い社会・時代への深い夢だっただろうか。

*大野一雄追悼「一雄&エルヴィス」展ー6月30日まで。
 am12時ーpm7時:月曜定休;水・金午後三時閉廊

 テンポラリ―スペース札幌市北区北16条に西5丁目1-8斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503

 








    


by kakiten | 2019-06-22 17:05 | Comments(0)
2019年 06月 18日

一雄&エルヴィス展ー大野一雄の戦後(2)

明治以降の鎖国を解いた近代日本が、ひたすら取り入れてきた
西洋化=欧米化。
国語を英語にしようとまでした過激な西洋化、鹿鳴館時代等極端
な西洋化は、欧米に対する過剰な憧憬を経て、大正デモクラシー
に至るある時代を造ってきた。
急激な勢いで入って来た西洋化の波は、政治的には三国軍事
同盟に顕れる様に、ドイツ・ヒットラー、イタリア・ムッソリニ
ーのファシズムと結びついた天皇制一極支配の変容で挫折する。
そして「鬼畜米英」のスローガンに象徴される、欧米との戦争
対決で、明治以降の西洋化の波は破綻する。
スキヤキから始まる庶民の洋食文化は、牛丼やかつ丼、カレーライス
と庶民に根付いた西洋肉料理の吸収を見せていたのと対照的に、政治
経済は正反対の方向で近代化をあらゆる分野で駆逐したと思える。
英軍の艦船撃破の報に、それまで優れたモダニストと思えた友人
文化人が大喜びするさまを苦々しく見ていた青年詩人鮎川信夫。
彼は、戦後次のように長編詩「アメリカ」を書いていた。

 それは1942年の秋であった
 「御機嫌よう!
 僕らはもう会うこともないだろう
 生きているにしても 倒れているにしても
 僕らの行手は暗いのだ」
 そして銃を担ったおたがいの姿を嘲りながら
 ひとりずつ夜の街から消えていった
 ・・・・・(中略)
 1947年の一情景を描き出そう
 僕は三人の友に会うのである
 手をあげると 人形のように歩き出し
 手を下すと 人形のように動かなくなる
 僕らが剥製の人間であるかどうか
 それを垂直に判断するには
 Ⅿよ 僕たちには君の高さが必要なのだろうか
 ・・・・・
 僕はひとり残される
 聴かせてくれ 目撃者は誰なのだ!
 いまは自我をみつめ微かなわらいを憶い出す
 影は一つの世界に変わってゆく
 小さな灯りを消してはならない
 絵画は燃えるような赤でなければならぬ
 「アメリカ!!」
 僕は突如白熱する
 僕はせきこみ調子づく
 僕は眼をかがやかし涛のように喋りかける
 ・・・・・
 「アメリカ・・・・」
 もっと荘重に、もっと全人類のために
 すべての人々の面前で語りたかった
 反コロンブスはアメリカを発見せず
 非ジェファーソンは独立宣言に署名しない
 われわれのアメリカはまだ発見されていないと

この戦中ー戦後1942年ー1947年の時代を背景とした
戦前近代の私的総括のような詩行で戦後発せられた三行は
後に削除される。
このアメリカは米国ではない。
ランドとして人類の前に顕れたアメリカなのだ。
日本の近代が悲劇的に挫折しながらも、鮎川信夫の内に胚胎
していた近代の象徴としての<アメリカ>・・・。
その夢のような萌芽<小さな灯り>を垣間見るのだ。

*「一雄&エルヴィス」展ー大野一雄の戦後ー6月30日まで。
 am12時ーpm7時:月曜定休。なお都合により水・金曜日
 午後3時閉廊。

 テンポラリ―スペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503



by kakiten | 2019-06-18 15:40 | Comments(0)
2019年 06月 14日

一雄&エルヴィスー大野一雄の戦後(1)

石炭・水力発電から石油・原子力発電へ。
馬力から自動車へ。
都(ミヤコ)からメガロポリス都市群へ。
近代は様々な変わり目をみせ、現代へと変貌しつつある。
近代と何か、と問う事は即ち現代を生きる己を問う事である。

自由の女神の立像が海上に立つニューヨークの港。
その巨大な女神像の向こうに聳え立つ摩天楼の街。
その風景は正しく新時代の夢近代の幕開けのように存在した。
民族国家を超えた自由と平等のランドの夢。
汽車もなく、飛行機もなく、海を船で渡って辿り着いた人々
が最初に見る新世界の光景だったに違いない。
そして摩天楼がメガロポリス都市群化し、タワービル群として
日常化しつつ現代がある。
鎖国を解いた明治の日本は急速に文明開化の名の下、西洋化・
欧米化の道を歩み、同時に国家としての自立性を強め、特に欧化
という表層的な近代化を建築物や法的制度に多く取り入れながら
も、精神的には国粋化に傾き、政治経済的に排他的な一国中心
のナショナリズムに偏り、<鬼畜米英>という欧米否定・対決の
西洋化全否定の近代の末路に突き進む。
そうした時代の激流の中で、大野一雄は函館という近代の窓口の
ような街で育ち、舞姫アルヘンチーナに憧れ、自らも舞踏の道を
志したのだ。
その想いは太平洋戦争に阻まれ、一兵士としてニューギニアの
最前線で戦いに従事する。
死んだ戦友の肉を食らう人肉事件もあったという過酷な戦場。
その経験を経て辛うじて生き延びた大野一雄が敗戦後帰国の
船上で見た海を漂うクラゲの群れ。
そのクラゲに死んだ戦友たちの魂を見る様に感じ、後年「水母
の踊り」として舞踏化している。
1980年齢70歳を過ぎてフランス・パリで踊り、<今世紀
の最も魅力的な芸術家のひとりが今パりにいる>とル・モンド
紙に絶賛される。
戦後海外での評価は主にフランスを中心にして欧州での評価
が高いように感じる。
かっての直接戦った米国との戦後は、心の底でどうだったの
だろうか・・・。

私には1991年9月石狩河口来札で野外公演した「石狩の
鼻曲がり」以降毎日稽古場で流していたというプレスリー―の
「愛さずにはいられない」がひとつの境目を得ていると感じる。
それまで、米国という国に対する大野一雄の拘りは胸の奥で続
いていた気がする。
その事を確信したのは、昨年出版された吉増剛造「舞踏言語」
出版記念会での大野慶人の指人形の大野一雄との踊りをVTR
で見た時だった。
10歳の時初めて会ったという父子。
その遠い父子関係は、慶人が同じ舞踏の道を歩んでも師弟とし
ても続いたように思える。
その遠い父子の関係が、プレスリーの唄聲を仲立ちにして、指
と手の中、慶人の身体の一部として親子が一体となっていたのだ。
大野一雄は晩年熊の踊りをカムチャッカの漁場の小屋で踊りたい
と語っていた。
父・祖父が漁業を営み漁場として訪れて居たというカムチャッカ。
そこによく現れたという羆の踊りにプレスリーのあの曲を流し
踊ってみたいと熱く語っている。
敵対する熊と人間、敵対する国家と人間。
そうした区分の境界を、プレスリーの「愛さずにはいられない」
の曲と共に大野一雄は命の繋がり・源泉の舞踏で通底しようと
したと思う。
慶人さんの何の隔たりも無くなった指の父への表情。
戦後近代化の米国を代表したエルヴィスプレスリーの歌曲を通し
てその志は確実に子に伝えられている。

 海へと確実にそそぐ川のように
 流れに身をゆだねるべき時もある 
 さあ手をとって、この命を捧げよう
 君を愛さずにはいられない

この何度か繰り返されるTaKe Мy ℍanⅾの歌詞
ここに大野一雄の新たな近代の始まりと古い近代の終焉
が見える気がするのだ。
日米戦争の米国から近代のランド・アメリカへ。
大野一雄の心の中の米国は国と国のある境を超えた。
大野一雄の戦後近代とは、すべての命の源泉から界(さかい)
を通底する回路を構築するたった一人の舞踏の道だったと思う。

*追悼・大野一雄「一雄&エルヴィス」-6月18日ー30日

 テンポラリ―スペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503





by kakiten | 2019-06-14 13:15 | Comments(0)
2019年 06月 11日

石狩みちゆきー小さなランド(ⅩⅣ)

かっての原生林を囲繞した植物園の森・泉。
その原生林が続く一部高層マンション化した伊藤邸一万四千
平方メートルの庭。
さらに続く泉池偕楽園緑地跡・清華亭・広大な北大構内。
この緑の運河エルムゾーン全部を歩けはしなかったようだが、
菊井さんは植物園だけでも充分に満足したようだった。
かって石狩河口を下見に大野一雄先生を案内した時も、植物園
がスタートだった。
石狩川の支流・源流のひとつ、植物園の泉池から石狩へと
考えたからだ。
この時大野先生曰く、”私はいろんな国の植物園を見てきまし
たが、こんな植物園は無いよ。初めて見ました・・・。”と独言
のように呟いていたのを忘れない。
図らずも菊井さんも、ここから石狩へと向かった。
石狩河口近くの草叢に沈んでいた廃バス、巨大な流木、望来の
崖下の砂山等で、心から解放されている少年のような様子を後
で写真で見る事ができた。
炭坑の閉山とともに捨てられようとしていた「北上坑」の看板。
その一枚の看板が機縁となって、夕張の山奥の都市から、東北の
石巻・北上川河口へと世界が開く。
近代日本を支えた黒いダイアモンド・石炭の近代は、宮城県北上
河口の3・11以降の現代へと姿を顕わしたのだ。
近代のエネルギー産業を底辺で支え続けた炭坑夫さん、女坑夫
さんの犠牲の記憶が、坑内火災・爆発等から人を守り、犠牲者の
鎮魂の為に日本の代表的大河の名を九つの坑道につけたという。
山奥の火災・爆発の火の災難から、河口の地震・大津波の水の災難へ。
水力・石炭の坑口から石油・原子力の現代エネルギーの河口へと、
女坑夫さんは同時代の坑道を掘りつつ、今も川の流れのように歩ん
でいるのだろうか。

たった一枚の今は見捨てられた廃坑坑口の木板。
そこに記載された女坑夫と北上坑の二文字が、近代から現代への
架橋・界(さかい)の坑道を開いている。

*追悼・大野一雄の戦後「プレスリーに触れて」ー6月18日(火)
 ~30日(日)月曜定休:水・金ー午後3時閉廊

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503



by kakiten | 2019-06-11 12:46 | Comments(0)
2019年 06月 09日

奥多摩の町からー小さなランド(XⅢ)

菅原さんの来た翌日、東京の奥多摩の町八王子から
菊井崇史さんが来た。
彼は足利・沖縄・東京共通の吉増剛造展カタログ約三百頁
を編集したひとりだ。
女坑夫さんの「北上坑」看板現わるの報に、鳥肌立つと感応
した一人である。
二泊三日の予定で、この展示を見る為に来てくれた。
ここには2014年冬の吉増展「水機(ハタ)ヲル日」以来だろうか、
繁茂に会っている人という訳ではない。
ただここ2,3年の国立近代美術館に始まる吉増展の流れで
今や欠かせない存在のひとりだ。
現時点で吉増剛造の一番近くに存在するひとり、と私は感じて
いる。
今回<女坑夫さん>記載の幻の夕張「北上坑」看板出現の報と
展示を躊躇なく電話で伝えたのには、その想いがあったからだ。
彼もまたその思いに躊躇なく応えてくれた。
6日木曜日午後、彼を迎えた北上坑・女坑夫さんの木の看板。
その周りの丈の高い白い花は、すでに小紫の彩に変色しつつ
あった。
それを含めて全体が枯れていく花々に囲まれて、北上坑の木の
看板は、どこか凛として誇らしげであった。
菊井さんは言葉なく、その様子を呑み込んでいる。
そして会場に低く流していた1995年「石狩シーツ」朗読CD
に誘われるように、奥の談話室に誘った。
もうひとつのこの名作詩の原点大野一雄の石狩河口公演「石狩
の鼻曲がり」の映像と今年出版された「舞踏言語」出版記念会
での大野慶人さんの舞踏映像を見せる為だ。
慶人さんの三分間の映像、大野一雄・慶人の石狩河口公演を
見終わって菊井さんは興奮収まらぬ様子で、次々と語り始める。
石狩河口で雌の鮭の死と生への賛歌の後大野慶人さんが白い額縁
を両手で持ち魚卵が膜を破り、初めて外の世界と接する片手と顔
の表情だけのシーン。
もうひとつの亡き父大野一雄を指人形にして、かっての敵国米国
の戦後を代表する歌手プレスリーの曲・聲に合わせて父大野一雄
と何の隔たりもなく語り合うような三分間のシーンとが、その手
の在りように於いて共通する、と言った言葉が私の心に響いた。
大野一雄の「石狩の鼻曲がり」の舞踏が顕した、生と死の亀裂・
溝・境を超える架け橋のような界(さかい)の世界。
(CONー共に)の界(さかい)が慶人さんの指人形三分間の舞い、
河中の生誕したばかりの鮭の卵が透明な膜を破る手の演技に継承
されている。
そういう指摘だった。
1992年慶人・一雄ふたり、石狩河口での生と死を繋ぐ公演。
27年後の2019年慶人ひとり、亡き父一雄を想う指人形を通し
繋ぐ世界。
産まれて十年間日米戦争に拠って隔てられていた父・子、そして
死の分断を、慶人さんの掌が鮭の卵の膜を破る手で繋いでいる。
私はハッとして、何故今まで河中の鮭の生誕のこのシーンに魅かれ
ていたかが解った気がした。

翌日私は通院治療で失礼したが、菊井崇史はМさんの車で石狩河口
へと向かった。

*北上坑・口展ー6月9日まで。am12時ーpm7時。

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503



by kakiten | 2019-06-09 15:12 | Comments(0)
2019年 06月 07日

炭坑の町からー小さなランド(Ⅻ)

写真家の菅原英二氏が来る。
彼はかって炭鉱で栄えた内陸の町三笠市出身である。
初めてお会いした時自分が内陸の町から出て初めて見た
海が石狩だったと聞いた事がある。
そしてその時の海への道をいつか写真で撮り発表したい
と言っていた。
しかし今回6月展示中の写真展は、今は逆に遠くなっ
た故郷三笠への道を探す事がテーマとなったという。
10代の頃の海への道。
年を経て長年札幌で美術学校の教師をし、今は故郷への
道を探す旅が先になったという。
この仕事を終えもう一度故郷三笠から石狩の海への道を
撮ってみたいと言った。
石炭産業の衰退とともに、故郷は寂れ遠くなっていった。
故郷はもうかっての故郷ではない。
札幌で働き、増々故郷は遠く小さく希薄になってくる。
故郷の確認を今住む街からもう一度、<その場所が保つ
固有の記憶を書き記すように、一枚また一枚シャッター
を切った>という。
そしてそこからもう一度初めての海へと歩を進め、写真
を撮りたいという。
現代とは、さまざまな個の形でこうした心の難民の時代
でもあると私は思う、
札幌で生まれ、札幌で生きている私でも、そう思う。
心の風土・故郷が喪失し続ける時代の風景の内に今生きている。

そう思い奥の談話室で大野慶人さんが父・故大野一雄さんに
代わり出席し独り演じた吉増剛造「舞踏言語」出版記念会
の映像を見せた。
10歳の時初めて見た父の顔。
日米戦争がその10年の心の距離を生んだのだ。
父はその後世界の舞踏家として、青年時代の叶わなかった夢
を追い続ける。
同じ舞踏家の道を選んだ慶人さんは、生涯父さんと呼ぶ事
が遠かったという。
その慶人さんが偉大な父の死後初めて、父を形どった指人形
とともに、かっての敵国米国の戦後ポップスのスター
エルベス・プレスリーの「好きにならずにいられない」に乗
せて踊るのだ。
幼い時父は遠く、長じて舞踏の大先輩として師匠であり、
百余歳での死後は、世界の大野として遠く世界中の人に
慕われ子として内外の訪問者に応待し、慶人さんにとって
父は死後も遠く高い位置の存在だっただろう。
しかし父を象った指人形はもう自分の身体の一部となって、
プレスリーの唄聲とともに父子は一体となって、ふたりの
長い時の距離を解消していた。
この僅か3分間の映像を見た途端、菅原さんの眼から涙が
迸る様に流れ出ていた。
一緒にいた美術家の教え子鈴木果澄さんが仰天して見ている。

1991年の野外公演「石狩の鼻曲がり」以降、大野一雄は
この曲を稽古場でよく使っていたという。
過酷な日米戦争の現場で幾人もの戦友を亡くし、その敵国
の曲・詞を恩讐を超え愛した大野一雄の戦後・プレスリー。
そこに人間の本当の心の故郷を菅原さんは敏感に感じ取って
いたに違いない。
この奇跡の三分間の独演に、慶人さんの遠く長い父と子の距離
が夢のように消えて、純粋なふたりだけの時間となっていたのだ。

 川が海へと確実に注ぐように
 流れに身をゆだねる時もある
 手をとって、さあこの人生を捧げよう

一雄&慶人・・・。
一雄&プレスリー。

国を超え、人種を超え、親子の時の溝・舞踏の相違を超え、
人間の真の心の故郷が慶人さんの掌の内に拓いていた。
その開かれた本質が、菅原さんの遠く小さくなった故郷を思う
気持ちの深処を撃ったのだと思う。
「北上坑」という今は閉じられた坑口の看板から、山と海への
深い個の回路が開いて、生と死の間、父と子の間、日米という
国家の間、そして都会と故郷の間を何かが流れていた。

この小さな展示は、大きな深度を発しつつある。

*「北上坑・口」展ー6月9日まで。
 am12時ーpm7時:月曜定休;水・金午後3時閉廊。

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503




by kakiten | 2019-06-07 12:39 | Comments(0)
2019年 06月 02日

3・11以降の地平ー小さなランド(Ⅺ)

北上坑の板看板を囲繞する丈の高い穂のような白い花が、
白から薄紫へ変わってきた。
静かに枯れが進行している。
それはそれで良い・・・。

来週この展示を見る為に二泊三日の休みを取り、駆け
付けてくれる東京のk氏。
足利、沖縄、東京共通の分厚い吉増展図録を編集した
熱い男だ。
自らも吉増さんの1400頁弱の大冊に負けず345頁
の渾身の長編詩集を出版した詩人でもある。
「北上坑」看板と女坑夫さんの私の話を聞いて、無理くり
休みを作り跳んでくるのだ。
逢えばきっと濃い濃密な時間が沸き立つように流れるだろう。
そしてもうひとり写真家のY氏も、鳥肌が立つ・・と語り
熱い気持ちを伝えてくれた。
彼は2011年から2012年の一年間吉増さんの誕生日
の2月22日に因み、毎月22日吉増さんを撮影し記録した
写真家である。
その写真記録は大冊「火の刺繍」に収録されている。
この現在の吉増剛造に最も近いふたりが、熱く燃えてくれた
だけでも今展示の意味は深いと私は思う。

坑内爆発事故で犠牲となった多くの女坑夫、男坑夫さんたち。
その火の災難に水の象徴大河の名を坑道につけて、鎮魂と安全
を祈ったという坑口の看板。
その近代の奥地の山の石炭の坑道が、北上河口の3・11
の大津波の水の災害地へ女坑夫さんと道行きして附いて
いく。
そんな不思議な関係が見える。

2011年12月「石狩河口 坐る ふたたび」は、以後毎年
変遷を重ね深まり、「水機(ミズハタ)ヲル日」から「怪物君」
を経て、「火の刺繍」まできたのだ。
怪物、水と火。
そして今年北上河口へ。
吉増剛造の背中に女坑夫さんの織姫のような舞い衣が見える
ような気がする。
幻のように顕れた北上坑の板看板は、女坑夫の記載を伴って
1994年初夏の「石狩シーツ」を近代から現代へと敷いて
3.11以降の現代へ導いている。

*「北上坑・口」展ー6月9日まで。
 am12時ーpm7時:月曜定休;水・金午後3時閉廊。
*大野一雄追悼「プレスリーの戦後」-6月18日―30日

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503


by kakiten | 2019-06-02 11:34 | Comments(0)