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2011年 09月 17日

線の魔力ー点と線(1)

<札幌北区の住宅街に生まれ育った少年は線の魔力にとり付かれ・・>と、
藤谷康晴は自己紹介に書いている。
<線の魔力>とはなんだろうか。
彼は最近自らを、ドローイングマンと記す。
点と点を繋ぐものが、線でもあるだろう。
しかし<線の魔力>とは、そうしたドット(点)の支配の外にある。

2006年最初の個展では、その線が街路・建築物の直線描写に終始していた。
流れるような流線では決してない、都市の直線である。
表面的にはコマーシアルな衣装の流線はあっても、その構造的な線は
あくまで目的点への直線構造が都市の構造線の本質である。
その事を見抜き表現したのが、一番街高層建築物の細密描写であった。
そこには人を魅了し誘惑するショーウインドウの商品も、看板も、人も、ビルの
高さも、消去されていた。
裏通り・中通りの猥雑で人間的な曲線に満ちた世界を消去してきたのが、
表通りの高層ビル群である。
そこに商品が埋まり、華やかで消費の物欲に満ちた世界が広がる。
裏通りはその物品の搬入・搬出口となり、人よりも車と物が主役の路となる。
この表・裏通りを支配する線は、物流構造の直線世界なのだ。
消費財の蓄積構造体とは、最終的に消費に直結されるドット構造である。
街路はその直線で構成されている。
線の魔力に取り付かれた青年は、この直線の構造を徹底的に暴き出す。
その結果が、一番街の建築構造体だけを細密に描き抜く事だった。
都市のドット直線構造に縛られた内なる有機的な流線を解き放つ事。
線の魔力を知る藤谷の果敢な、ドット支配の直線構造との戦いが、
この後始る。
点と点を最短距離で結ぶ物流の直線構造支配。
それが、線から見た都市構造でもある。
新幹線・地下鉄・高速昇降機・高速道路・高層ビル群。
これらはすべてそうした直線構造の顕れでもある。
藤谷康晴の挑戦とは、そうした直線との戦いを対極としての流線の創造
に賭ける事で始ったと思える。
今回あれほどまでに嫌悪した高層ビルの高さにあたかも対峙するかのように、
「神の経路」と題した高さ3m余の作品を展示した。
これは、かって高層ビル群から等身大の目の高さを超えた部分をすべて
消去し切り捨てた、一番街細密画の逆をいくものである。
自らの目から天を目指し上昇してゆく、内側からの高さの回復・再生のように、
この作品はある。
この眼の高みへの視座は、祈りのような極めて人間的な行為に似ている。
流れるように縺れあいながら、ある高みへと向かうこの直線は、ドット(点)に縛ら
れたあの直線ではもう決してない。
<線の魔力>はこの時初めて、<自然>という名の<神>への視座を獲得しつ
つあるのかも知れない。
同時に今回の個展で初めて発表された「CELL」12枚の連作は、さらなる自由な
対峙と解放の流れるような美しい羽衣のような作品となっている。
3・11以降の<絆>という言葉に、一番深い処で触れているかのように、
この作品は私には感じられる。

*藤谷康晴展「覚醒庵~ドローイング伽藍~」ー9月13日(火)-25日(日)
 am11時ーpm7時:月曜定休。

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503

by kakiten | 2011-09-17 13:24 | Comments(0)
2011年 09月 15日

幻視の人ードットの時代(21)

2006年の最初の個展から都市構造を幻視し、その奥に潜む魔の表現を、
疾走するドローイングの絵筆で描き続けている。
藤谷康晴とは、一言で言うとそんな画家である。
<疾走するドローイング>と思わず書いたが、ある時期のライブドローイング
に集中した藤谷康晴は、正しく月に一度街角ライブで疾走していたのだ。
その後大阪・京都という初の関西地方での個展を経て、都市の奥に潜む魔
の表現に色彩が顕われ、飛竜のような天を飛ぶものが顕われてくる。
アイヌの世界のカムイのように、神的なものと魔的なものが混然と一体化し
、従来のモノクローム中心の一方の魔から神的な魔も併せてそれらが、
表現の中心に顕われてきたかに思える。
その変化の底にあるものは、札幌という近代の都市から西の千年の都へ
と、表現する場の転位にも影響されているのだろう。
札幌という都市が明治の当初西の京を真似し、次に東の京を真似た事は
よく知られた史実である。
札幌の都心部を壁の構造体としてその衣装性を剥ぎ凝視した事から出発した
藤谷康晴は、大阪・京都という日本の欧州ともいうべき古都を透視して、北の
近代都市にない歴史の闇・魔を見詰め始めている。
そこから弾き出された魔とは、近代が喪失してきた神でもある未知の魔である。
今回の東海大震災・福島原発事故で露出してきた自然の力とは、この魔を
人間社会が軽視し奢ってきた事の、自然からの回答とも思えるものである。
見えない魔・放射能が解き放たれ、人は計測航行の社会に居る。
見えない魔が都市を消し、野畑を消し、故郷すら消そうとしている。
藤谷康晴が都市の中心部に見た幻視の世界が、現実のものともなっている。
人が消え、物が消え、構造物だけが存在しているのは、もう一部の場処では
現実の風景だからである。
そうした現実が仮想現実を超える今、都市を凝視する作家の眼は新たな魔の
神の部分への畏敬ともなって、天へ昇天する舞いのような軽やかな羽根のよう
な線を生んできた。
それが今回の吹き抜けを突き抜ける大作「神の経路」と「CELL」と名付けられた
新作12枚の連作のように思える。
それは藤谷康晴の新たな都市論として、次なる着地を用意する筈である。
そしてその着地点は、3・11以降の我々の都市の構造と深く関わる処でもある。

*藤谷康晴展「覚醒庵~ドローイング伽藍~」-9月13日(火)-25日(日)
 am11時ーpm7時:月曜定休。

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503

by kakiten | 2011-09-15 16:30 | Comments(0)
2011年 09月 14日

藤谷康晴展初日ードットの時代(20)

N・YのNさんから9・11を想起させる葉書が届く。
キングコングが、ワールドトレードセンタービルに拳を叩きつけている。
裏には近況報告が記されていた。
美術家のNくんとMさんが同時に朝一番で来る。
それぞれが就職を巡り、美術表現と生活上のギヤップと闘っている
最中である。

M夫人が来て、藤谷さんの今回の作品を高く評価する。
「CELL」と題された12枚の内の一枚を求めたいとの申し出がある。
蝶のように舞い、妖精の舞のようにも見える、今回の新作である。
正面を天井に抜く3mの掛け軸状の作品の背後に輪舞するかのような、
不思議な舞のようにも見える連作である。

夕方珍しく美術家佐佐木方斎さんが来る。
最近は自宅を将棋道場にして、あまり出てくる事が無い。
新作の完成も遅滞している。
このまま趣味の世界に沈んで欲しくは無い人だが・・。
藤谷さんから案内状が届いたから、と言う。
今回の個展の印象を聞こうと思っていたら、教育大2年のSくんが来て、
さらに東京芸大院生の女性が訊ねて来る。
映像作家の大木裕之さんの紹介と言う。
そこに役所勤めのK氏とk・k氏が連れ立ってやって来た。
初日らしく、M夫人からも昼差し入れを頂いたが、ふたりからも頂く。
しかし作家本人は今日も仕事で残念ながら、不在である。
作家在廊日は、15日(木)、21日(水)、25日(日)の3日間である。
今年6月の京都展で一度職を辞し、今は新たな職に就いたばかり。
生活と自己表現の挾間を、彼もまた戦っている。
朝のNくん、Mさんと同じ線上にいる。
私は佐佐木方斎氏に対してもまた、最後の戦線復帰を望むものである。

*藤谷康晴展「覚醒庵~ドローイング伽藍~」-9月13日(火)-25日(日)
 am11時ーpm7時:月曜定休。

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
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by kakiten | 2011-09-14 12:57 | Comments(0)
2011年 09月 13日

藤谷康晴展始るードットの時代(19)

5年前夏「常温で狂乱」で始った藤谷康晴展。
その時は、一番街南北の高層ビル群を精緻な構造物の細密画として、人も
看板も無い建物群が街路とともに縮尺され鴨居の高さに張り巡らされていた。
歩道を歩く人の目の高さで建物上部は切られ、立ち止り見上げる視座に
ビル群の高さは存在しなかった。
最初この作品を見た時、これは目の街へのテロだな、と思った。
等身大を超えるものを視界から切り捨てる事、パルコや三越といった表示を
消去し、ショッピングビルからショップ的な匂いを消して即物的な構造体のみ
を精緻に抽出する。
すると街は、壁の連続のように無機質に存在する世界となる。
この都心中心繁華街から、欲望の芽を悉く消去する目。
街から欲望の衣装を剥ぎ取り、ただの壁構造として高層建物群を描き出さんと
する作者の目の奥に篭もる容赦ない捨象の意思。
そして描き出されたものは、超リアルな細密画による「常温」と捉える都市風景で
あり、構造体としての即物的なビル壁の街路であった。
都市の欲望に絡まるビルの高さの誇示や商品への華やかな誘惑。
それらを捨象する即物的な構図。
その目の背後に「狂乱」を隠した情念がその後一気に噴出して、街角での
至る所でのライブドローイングへと展開してゆく事になる。
直線で画された街路を身体を張ってひっぺ返すのような、月一度のライブドロー
イングを続ける藤谷康晴の、その後展開があるのである。
この都市破壊ともいうべき彼の画業行為は、今年その都市の古典的原点でもある
京都個展の挑戦を経て、あきらかに都市の奥に潜む歴史的魔の情念の表出を抉り
出す方向を見せている。
格子状の安全・衛生・管理の街路の奥に潜む、千年の都の魔物。
京都と同じような碁盤の目状の札幌の街角。
そこを削ぎ落として情念の魔を注入し昇天するかのように今回、「神の経路」と題さ
れた長さ3m巾1・8mの作品が吹き抜けを貫いている。
従来のモノクロームな色調は様々な色彩を帯び、竹のように天に伸び華麗である。
魔物は龍のように天を貫き、哄笑している。
都市の虚飾に満ちた欲望の衣装を剥ぎ取り、憎悪とも思えるその虚飾を凝視した
眼は今、新たなパトスを保って都市のロゴスを見詰め直しているかのようだ。

*藤谷康晴展「覚醒庵~ドローイング伽藍~」ー9月13日(火)-25日(日)
 am11時ーpm7時:月曜定休。

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
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by kakiten | 2011-09-13 15:35 | Comments(0)
2011年 09月 10日

現代の西遊記ードットの時代(18)

福島のK氏から最近の便りがある。
汚染された土を埋め、8月は高圧洗浄で建物・道路を洗っているという。
洗浄した後も、時間が経つとまた数値が高くなるので、継続的に洗浄を
続ける必要があるという。
昨日のTBS報道では、診療患者の激減で病院の経営が成り立たない
現状が報告されていた。
前年比85%の減で月5000万円の赤字という。
さらに故郷を終の棲家にしようと、小児科医院を自宅とともに新築した
ばかりの医師は、子供の数の激減で経営が成り立たず閉院も止む無し
と語っていた。
映像で見る限り、総合病院も小児科医院も立派な設備の病院である。
そこには地震や津波とはまた違う、目に見えないブラックホールのような
人が消えた街の状況がある。
放射能のホットスポット、街にブラックホールのような黒い点(dot)が生ま
れている。
指先の操作、dot構造を操作する文明社会を築いてきた人類は、
その真逆の見えない暗い穴を生んでいる。
高圧洗浄機でその穴を消し、その廃棄物をさらに深い穴へと収容する。
今はただ一時的に、点々と青いブルーシートで蔽っているだけなのだ。
消滅しないブラックホールのdotは、さらに濃く濃縮され人を消してゆく。
そんな事を考えると、辞書の中にあるdotの引用がやけにリアルになる。
dot age(もうろく、溺愛)、dot head(スカ頭)と、点は深い穴となり、
廃人の世界を造っていく。
普段ドットの画素に囲まれてこの社会を生きている。
さらにこの指先ドット操作構造は進化するだろう。
道具から機械へとその増幅装置は発達し、ますます掌の機能は指先の
点・dotに支配される。
これは進化なのか、退化なのか。
お釈迦さまの掌を飛び出した孫悟空は、外道へ転落する。
大きな自然・宇宙という釈迦の掌をはみ出してはならない。
その為に額を締めるあの孫悟空の頭輪のような痛みの知性こそが、
今求められている。
そんな気がする。
西遊記で孫悟空たちが戦う妖怪とは、現代のブラックホールの妖怪とも
読み取れるからだ。
高圧洗浄機とは、現代の沙悟浄かも・・。

*藤谷康晴展「覚醒庵~ドローイング伽藍~」-9月13日(火)-25日(日)
 am11時ーpm7時:月曜定休。

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
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by kakiten | 2011-09-10 14:50 | Comments(0)
2011年 09月 09日

竹本英樹展終るードットの時代(17)

竹本英樹写真展終る。
最終日多くの人が来る。
ただ本人が居ないので、残念という感じが漂った。
三角展のひとりアキタヒデキさん、徹夜で朦朧といいながらふらふらと現われる。
仕事がとても立て込んでいるようだ。
東日本大震災の後予定したヴェトナム行きを止め、仕事と写真表現の充実
に今は励んでいる。
メタ佐藤×竹本英樹×アキタヒデキの3人で始めた写真家集団三角。
それぞれが交感し、それが今回の竹本展にも結実している。
最後はそれぞれの個展だなあと、
私は、アキタさんメタ佐藤さんにも期待している。

村岸宏昭の遺作集「自分を代表させるような仕事はまだありません」(かりん舎)
を読んだWさんから、率直で深い感想がメールで送られて来る。
先日久し振りに訪ねて来てくれ、有山さんたちのムラギシ曲「撓む指は羽根」の
演奏も聞いてくれたのだ。
私が時にしばしばMよと呼びかける村岸宏昭、その遺作集は今も途切れる事なく
こうして人の手に渡っている。
もう今は本人を知らない人の方が多いのだ。
彼の遺されたブログから引用された一文が、そのままタイトルとなり発刊されて
もう2年にもなる。
A4変型版160頁(内カラー96頁)音楽CD2枚別冊楽譜集付きという豪華本
である。
2006年8月に四国の鏡川で遭難死して3年をかけこの本を纏めた。
それからさらにもう2年の月日が流れた。
段々とこの本自体が独立して、今は村岸を未知の人が多くなってきて、曲や本
を通してWさんのように、深い感想を自分の問題として寄せてくれるのだ。
こうして本を通す事で、村岸宏昭はどんどん私の中でカタカナのムラギシになり、
Mになってゆく。
来週から個展の藤谷康晴さんは、そのムラギシのすぐ前に5年前個展をした
作家である。
この時入れ替わりの夜、ふたりが交わした掛け声は今も忘れない。

 バトン タッチ ハイタッチ!

その時の声と仕草は、今も暗い夜の光に浮かぶように、鮮やかである。

*藤谷康晴展「覚醒庵~ドローイング伽藍~」-9月13日(火)-25日(日)
 am11時ーpm7時:月曜定休。

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜通り西向
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by kakiten | 2011-09-09 15:50 | Comments(0)
2011年 09月 08日

最終日前ードットの時代(16)

竹本英樹展最終日前日。
お花のHさんが来て、デザインのYくんが来る。
Yくんは先日の灯かりの展示が気になったという。
そこに教育大のSくんが来て、さらに美術家のSさんも来た。
初対面の人もいれば、何度目かの人もいて、それぞれを紹介する。
Yくんは私の雨竜沼登山姿の写真を、からかって以来である。
あの時はもうひとりK氏がいて、ふたりでケイタイにその写真を写して
他の人に転送したりして、大分チョシてくれた。
今日はその相方がいないので、神妙である。
閉廊時も過ぎ、お腹も空いたので、みんなでゆかりへ向かう。
着いて間もなく、なんとK氏がK・K氏と入ってきた。
それからは、このふたりのプリン体同盟がおおいに意気投合して
またまた場を盛り上げたのである。

東京の映像作家石田尚志さんから、イヴェントの案内が送られて来る。
吉増剛造×石田尚志「CINEーオペラシオン」-9月10日東京都現代
美術館地下講堂。午後3時~。
画家/映像作家石田尚志と「ロードムービー」gozo cineを操る詩人
吉増剛造とのコラボレーシヨンである。
このふたりの映像上映の後、その幕の前でふたりが語り合うという
なんとも魅力的な案内である。
真っ赤な封筒には、「10年越しの大仕事です。大きなふしめです。」
のメモがある。
行きたいけれど、無理だなあ。
石田尚志さんは、もうテンポラリースペースで4回ほど個展を重ねている。
さらに石田さんを私に紹介したのは、吉増さんである。
このふたりの天才の顔合わせは、現在東京都美術館で展示中の
石田尚志特集展示(6月11日ー10月2日)の会期中に特別に催された
ものと思われ、急に決まった事なのだ。
こういう時は、東京ー札幌の距離を感じる。
すぐに行く事は叶わない。
東日本大震災そしてそれに続く原発事故の現在と、このふたりの
天才が如何なる対話とパフォーマンスを繰り出すのか。
現場に立ち会いたいなあと、思いは募る。

*竹本英樹写真展「意識の素粒子」-9月8日(木)まで。
*藤谷康晴展「覚醒庵~ドローイング伽藍~」-9月13日(火)-25日(日)

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
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by kakiten | 2011-09-08 13:38 | Comments(0)
2011年 09月 07日

風雨去ってードットの時代(15)

朝晴れて雲が出て、雨降る。
少しまた晴れて、風が出る。
秋の風のようだ。
気温も下がり、少し肌寒いくらい。
増水した豊平川の岸辺の遊歩道が水の中に沈んでいる。
この間までは、暑さで太陽の火の力を感じていたが、
今度は台風で、水の力を感じている。
どちらも穏やかな時は限り無く優しいのだが、ひとたび荒れると
恐ろしい破壊力を見せつける。
水も火も風も、そうなんだ。
生物には生存競争があるけれど、自然には生存競争とは違う破壊力がある。
古来人はこの破壊力に対して畏怖し、優しさと共に神を見たのだろうか。
限りなく破壊し、限りなく優しいものに。

人間にとって優しさとはなんなのか。
自然のような限りない優しさは、本来人間には叶わぬものである。
自然が優しいと思う事自体が、すでに人間的な観念の所産なのだ。
大きな宇宙的環境自然に我々は、そっと添わして頂いているだけ。
地を這う虫のように、風に漂う綿毛のように、水に浮かぶ藻のように、
人間もまた。

1981年夏同じような大きな台風が来て、街中の暗渠の川が氾濫した
事があった。
見えない川の氾濫と当時のマスコミは書いた。
そこから見えない川を辿り、見えない札幌の大地を知った。
毛細血管のように網の目状の大地が顕われ、川はひとつの海へと繋がる。
川に沿うと風が見えた。
川に沿う事は風に添う事でもあり、見えない川は見えない風とともにあった。
その風の吹く道は、人の歩く古道でもあり時に街道でもあった。
そしてそこには森が寄り添うようにある。
その木々の土の下の根のように、光と水は一体の有機的な存在で、
川を通して風と水も同じように有機的な一体の存在であったと思う。
その光と水と風の寄り添う関係性の中に、優しさと言い得るものが存在した。
その位相において、人間の直線社会構造は破壊的であったのだ。
しかしその破壊は功利の物流構造であり、生存競争に近いものである。
自然に優しくエコに、という人間的観念の次元に本当の優しさはない。
自然に対して優しくなどというのは虚偽で、自然に添う事が人間の優しさ
をどこかで保証する事に繋がるかも知れない事だろう。

*竹本英樹写真展「意識の素粒子」-9月8日(木)まで。
 am11時ーpm7時。
*藤谷康晴展「覚醒庵~ドローイング伽藍~」-9月13日(火)-25日(日)

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
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by kakiten | 2011-09-07 15:14 | Comments(0)
2011年 09月 06日

灯影の素夜ードットの時代(14)

日曜日の夕、小さなキャンドルを会場に灯した。
北壁下から東壁下にかけて、30個ほどの灯りが床に灯る。
正面の36枚組のハイヒールの写真が、黒々と存在感を増す。
灯りの揺らぎの中に残りの142枚がぼんやりと囲む。
蝋燭の炎の灯りが画素(ドット)の境を消し、
ひとつの有機的な空気・空間に変容する。
蝋燭の灯り。
光ひとつで世界はこんなにも変わる。
以前ガラスとキャンドル展の時、
揺らぐ炎の前に竹本さんの写真を翳(かざ)して、見た事がある。
竹本画像に炎の揺らぎが反応して、不思議な魅力を引き出していた。
こういう照明の展示が良いね、とその時話した記憶がある。
今回はその思い付きを実際に試みたのだ。
焦点の揺れる竹本ワールドに、キャンドルの炎の揺らぎは同調して、
会場全体がひとつの世界を醸し出す。
同席した写真家のM氏も興奮して、盛んに持参したカメラのシャッターを押す。
竹本さん本人が勿論の事、一番ハイテンシヨンである。
この明るさでこんなに明瞭に写るとは、とデジタルカメラの高性能を誉めまくる。
カメラの性能の事だけではない、心の昂揚である。
すると、外で立ち止りじっと見ている人がいた。
そしてとうとう中に入って見惚れている。
通りすがりの人という。
思わず立ち止ったと言う。
作家は大喜びで、今度は昼にも見て下さいと声を出していた。
吹き抜けの上から見たり、外の道路から見たり、ふたりの写真家はもう撮影に
夢中である。
興奮がしばらくして落ち着き、今度は床に足を投げ出して四方山話が続く。
作品と人の間の垣根が消えて、作品に包まれて会話が飛んでいる。
ビールの杯が進み、お迎えに竹本さんの奥さん、愛娘結音ちゃんが来た頃
は、もう大分出来上がっていた。
後は結音ちゃんの独壇場で、会場にいたおじさんたちのアイドルとなり、
質問攻めに合っている。
竹本英樹展「意識の素粒子」最終日前最後の灯影パフォーマンスは、
178枚の画素をひとつの構造体のように、家族と友人たちを灯かりで繋いで
終る。

*竹本英樹写真展「意識の素粒子」-9月8日(木)まで。
 am11時ーpm7時。
*藤谷康晴展「覚醒庵~ドローイング伽藍~」-9月13日(火)-25日(日)

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
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by kakiten | 2011-09-06 12:16 | Comments(0)
2011年 09月 04日

風は土を掴むかードットの時代(13)

墓地を分断し、神社を分断し車道が出来る。
円山公園の由緒ある古い墓地、伏見稲荷の赤い鳥居へと続く磨り減った
長い大きな石段。そこを分断する高速環状線。
かってその周囲は、何軒も養狐場が軒を列ねる毛皮を採集する場所だった。
頂いた昭和の住宅地図には、そうした山裾の生業の広告が載っている。
奥の方には不動の滝が記され、川・滝・山裾といった地形を活かした人の
生活風景が恒間見える。
一帯が藻岩村とか、滝の沢とか呼ばれた時代である。
この一帯を今は真駒内へと通じる車道が横断し、車主体の高級住宅街と
なっている。
そしてその下には高層マンシヨンが林立し、墓地を睥睨している。
高層ビルには高速エレヴェターが上昇し、地上は車が高速で走る。
目的をドットで結ぶ高速構造である。
地下も含めてそうした目的地を点で繋ぐ構造が、墓地を切り裂き、神社を
分断する物流効率優位の街を造ってきた。
何が喪われたかと問えば、それは土=ランドであるだろう。
ランドとは、別の言い方をすれば、故郷・故国に繋がる。
風土という言葉には、風と土から成るメタファが潜んでいる。
風は不可視で土は可視であるとすれば、見える土(ランド)を喪い、見えない
風だけが、根無し草の風俗のようにこの街を吹き抜ける。
風も土を見失えば、たたただ通り過ぎる流行り風のようにしか存在しない。
今風は土を掴めるか?
この時風的なるものとは、文化のモダニズムであり、新しい何かである。
綿毛のように、遠くから飛んで来た音・色・言葉・産業の種子。
かってルイス・ベーマーがリンゴを運び、ビールを運び、葡萄酒を運んだ
ように、風の文化の種子は土に根付くのである。
月寒丘陵の酪農、各地のワイナリー、林檎園と同じように、遠くから来た
見えない風の種子は文化として土(ランド)を掴む。
目的点(ドット)だけに至る過程は目を瞑る構造である。
点と点の間は見ない・無視の構造からは、土(ランド)も消去される。
ドットという目的点の為に途中の過程を見ない・無視するシカト構造こそが、
墓地を分断し、神社を分断する土(ランド)捨象の構造でもあるのだ。
物が風のように流通する。
その風は土を掴まない。
土を喪った風は、風土を生まない。
風土を生まなければ、文化も生まれない。
ただただ、風俗のように流行り風が通り過ぎて行くだけの、空っ風の街になる。
如何に風を掴み、如何に風を起すか。
その為には、如何に自らの土(ランド)を如何に掘り起こすかという、
文化のカチヴェート(自耕)の日常が問われている。
空っ風は埃を巻き上げ、ランドフイル(最終ゴミ処理場)の上を吹き抜ける。
分別・ブンベツと呟きながら・・。
ランド→ランドフイル。

*竹本英樹写真展「意識の素粒子」-9月8日(木)まで。
 am11時ーpm7時:月曜定休。
*藤谷康晴展「覚醒庵~ドロ-イング伽藍~」-9月13日(火)-25日(日)

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
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by kakiten | 2011-09-04 12:42 | Comments(0)