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テンポラリー通信

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2006年 12月 09日

白い空気の底からー函(はこ〉となって溢れる(1)

フリースペースプラハの大橋拓さんが訪ねて来る。まだ通院中という足を少し引
きずりながらハイネッケン4缶持って来た。今は旧曙小学校に拠点を構えプラハ
8joという名前らしい。8joは広さ8疊間の事。今年から来年の企画や現状を例に
よつてトコロテンみたいな口調でトロリとろりと語りだす。何年か前一緒に企画し
実行したロジヤーーアックリングの石狩望来プロジェクトが理想と言う。来年なに
かできないかと言う。そして有名な人でなく若い無名な人がいいと言う。私はあまり
有名無名に拘ってはいない。問題はこちらの現実意識と思う。いい仕事をするの
にそれ以前の有名性も無名性も関係ないからだ。問題は第一線の感覚だ。こち
らが退いてはいけない。有名無名、老若で見詰めている余裕というかそのポシショ
ンにいては自分自身が退いていることになる。客観性とも違う。熱く立ち会いたい
からだ。二時間ほど話して帰り際にここテンポラリースペースは最近いろんな人の
逃げ場になっているんじゃないかと言う。港が避難場所にとなっていないか。そう
かなあと少し疑問だった。体気を付けて下さい、急にがくっときますからとぼそっと
言った。大橋さんなりの心配、感想と思うが誰が何から避難してきているのかも分
からない。こちらもそんな気も無い。避難ではなく此処で何かが変わってきた人は
いる。もっとアクテイブなものだ。客観的にAからBに移動した現象をAからの逃避
あるいは避難と見ている。そりゃあ~ないぜと声が聞こえるのだ。それより今の自
分の場をもっと充実魅力あるものとして気合いれて生きて欲しい。ネット裏の解説
のように周囲を見てグラウンドの外へ出ちまっては駄目よ、大橋さん。甲子園だか
らとか後楽園だからとか現場のグラウンドではそんなこと言ってられない。
ミクシイでSPIさんこと今城恵子さんが熱いブログを書いている。九州福岡の上陸
レポートだ。そこで札幌と福岡の共通の友人が繋がって彼女の仕事が活き活きと
語られている。何か弾けたなあ彼女は。AとBという場の違いが屈託無く軽やかに
熱く往還される。そこに同時代を生きる人間の呼吸がある。そして固有の個の函が
ある。溜めて、溢れている。距離の問題ではない。心の函という場の問題なのだ。
さっぽろのなかでAとかBとかいうのも同じ事。軽々と鮮やかに歩きましょう、大橋さ
ん、足だってそうすれば良くなるよ。そう書きながら実は大橋さんに事寄せて私自
身に対する自分自身へのエールなのだこれはと思う。今日SPIさん読んで元気貰
った。ほんとにありがとう。

by kakiten | 2006-12-09 13:33 | Comments(0)
2006年 12月 07日

息を吸い息を吐きー冬のいのり(40)

息を吸い息を吐き身体は函となって溢れ、足を前に進める。左,右、止まり、。時
に頭上げ、頭下げ、振り返りまた前へ。このブログを書き出してもう一年が過ぎた
。疾風怒涛のような時にも思えるし、きらきらと輝き、急速に廃星の光芒の冥のよ
うにも思える。ただ変らないのは歩いていた事。靴は3足磨り減った。靴下はみん
な穴だらけ。山用の靴下を今は履いている。息を止め,息を呑みひとり立ち尽く
す時もある。それも歩行なのだ。きっと疲れも正常な身体の内にある。溜め過ぎ
ては駄目だよ、と自分で自分に声をかける。吸って吐く、心も体も函となって溢れ
なければ。最近キースジャレットの「ケルンコンサート」が心地よい。日に何度も
聞いている。雪が降って溶けて、空気は冷たく。時に死者のように暖かく冷酷だ。
そんな時キースジャレットのピアノがいい。きっと音を咀嚼しているのだ。音を食
べている。心が生きる為に。これも歩き。こころ歩き。心の靴、心の靴下擦り切れ
ないようにね、、、。酒井博史さん、岡和田直人さん、野上裕之さんそして玄米の
Aさんもね。咀嚼し、きりっと歩きつづけましょうぼくら。ドイツのSさんから再び便り
来る。<何か、ハンブルグからさっぽろまで水脈のようなものを感じました。>
ひとつの旗が鳴っている。風にぶつかって旗竿も鳴っている。maw-まゥー呼気
ー風ーハマナスの実。さっぽろで僕らも呼気の実を鳴らせ生らせましょう。Sさん
。今深い疲労も深い身体の内にある。吸気の花はシラネアオイと中川さんがいつ
か言っていた。そう、谷間の深い川の傍、吸気の花の咲く夏の始め”春の匂い”透
明な薄紫の花に来年は逢いたいね。

*maw(まゥ)はアイヌ語。知里真志保地名アイヌ語小辞典による。

by kakiten | 2006-12-07 12:40 | Comments(4)
2006年 12月 06日

酒井博史さんの事故ー冬のいのり(39)

昨夜帰宅途中にテーラー岩澤さんの車が止まった。酒井博史さん宅の帰りだっ
た。種々事故の事情を聞く。なにもかもつきっきりでお世話をしたようだった。丁
度休みの日でよかったと言う。母一人子一人の家庭で息子の事故におろおろし
ているお母さんには心強い味方だったろうと思う。酒井さんと岩澤さんとは同じ職
人としてまた同じ三代目、二代目としての友情、縁というものを感じる。ここで知り
合ったのが縁でふたつの家の間には深い情が通っている。個々の人柄もあるだろ
うが共に職人として生き生活している見えない友情があるのだと思う。酒井さんの
優れた歌唱もそこには介在している。先月テーラーさんの職場であるお店で開か
れたライブの時初めて立って唄った酒井さんの活き活きした姿も思い出すのだ。
職人気質の人が自分の職場を人に開く事自体そうそう有り得る事ではない。此処
で知り合い此処から開いていく人の情、友情を想う。しかし一歩間違えばもう3人目
の死者を見ることになっていた。もう、嫌だねえ。どこかで厄払いしましょう!今月
17日の酒井ヒロシ三十歳の誕生ライブは心配してくれた人に感謝をこめ、”お歳暮
ライブ”にしませんか。

by kakiten | 2006-12-06 11:30 | Comments(0)
2006年 12月 05日

かみしめる、咀嚼するー冬のいのり(38)

Aさんと玄米ご飯の店に行った。Aさんは体の関係で玄米を常食にしている。お
煮しめとお漬物、お味噌汁のシンプルな定食だ。食べながらふっと気付く。噛む
時間咀嚼する時間がゆっくりと過ぎている。Aさんに合せていつもの早食いの癖
が抑えられお米が甘いのだ。玄米のせいもある。かみ締める時間が快い。身体
のカルチベート。噛んで耕している。これ、忘れていた時間だった。文化だけでは
ない。体が必要とする時間。噛み締める、咀嚼する。そして話す。いつもの三倍
はかかった。それでもまだAさんは咀嚼を続けている。そのラクダのような租借の
時間をぼんやり過ごしながら食事の時間がこんなにもゆったりと流れていくのが
とても新鮮だった。食後お茶を呑む。なにかとりとめのない話をする。話もゆっくり
と咀嚼されていく。食後なんだなあ。こんな時間をいつからか喪っていた。スロー
フードとか云うものだけではない気がした。時間が豊かな夕食だった。Aさんあり
がとう。今朝雪掻きをしてブログを打っていると、大家さんのテーラー岩澤さんが
来た。「聞いてる?酒井くんのこと」と言う。いいえと言うと「昨夜車で事故を起こし
中村脳外科に入院していると昨夜遅くお母さんから連絡あった」と言う。ひえ~、
知らなかった。相手も怪我しているらしく本人も気が動転しているらしい。午後に
お見舞いに行くと言う。大丈夫か酒井さん、俺も後から見舞いに行く。昨夜のゆっ
たりした玄米の時間は吹っ飛んでしまった。
第二報ー病院には入院しなくてよかったみたいだ。岩澤さんご夫妻酒井さんのお
店に行きお母さんと会いその後の状況伝えてくれる。夜停車中の車にぶつけたら
しい。本人は自宅で休んでいる様子。午後から店にも出てくるらしい。携帯電話は
壊れて不通。岩澤さんご夫妻は自宅まで伺うと云って出た。おふたりにはとんだ
定休日だな、岩澤ご夫妻には深く感謝です。
第三報ー本人とも電話で話す。頭の怪我は縫っただけみたい。内部に至らなくて
幸い。仕事をしている様で何はともあれである。後は事故処理だと言う。まあこれ
で今年の厄払いになればいい。もう事故は結構ですよ。賀村さんほか午前中の
このブログ読んで安否の電話来る。17日バースデイライブは大丈夫かとも。

by kakiten | 2006-12-05 11:16 | Comments(0)
2006年 12月 03日

雪をほろって・・・-冬のいのり(37)

ある人がそのブログで「雪をほろう・・」と懐かしい方言を書いている。小学校の入
り口の看板に「雪をほろって入ってください」と書かれていたと。そう云えばそんな
言い方したっけ。なにか母親の声を想い出すような気がする。これも音。声音だ
なあ。「払う」ではなく「ほろう」。今ももしそんな声が外から帰って来て聞こえたら
一瞬少年に戻るかも知れない。昨夜の雪は暖かくたっぷりとしてふわふわした
そんな時間がふっと続いているような雪だった。湿雪ではなくふ~っと包み込む
ような柔らかい雪。牡丹雪ほど大きくはなかったが。言葉にも声という音から発せ
られると固有の身体性が顕われる。炭鉱で捨てられた石炭で出来た山を南でボタ
山と言い北でズリ山と言うように風土の違いが目に見える違いとして表現される。
”ズリ”と言うと吹雪や風の冷たさまで想像される。”ボタ”には南の風を感じる。
言葉が保つ風土の身体性またそれが発音されて響く時の声音の身体性は映像
まで伴なった直接性をもつのだ。方言という忘れ去られ捨て去られようとしている
声音にインターローカルな文化を感じるのは画一的な共通言語に対峙する心の
土壌の故だと思う。<雪を払う>でなくて(雪をほろって)今日を生きる。記憶を払
うのではなく記憶もほろって生きようっと。
朝、鬱病気味といHさんから電話が来る。職場のこと、家のことで昨日は過敏に
なっていたと言う。某ギヤラリーのパーテイのホームページに顔が見えたので
久し振りに昨日電話したのだがイライラした様子だった。そのお詫びもあってき
た電話だった。聞いてくれるかいという感じで作家と職場のズレの悩みを聞かさ
れた。立場は違うけれど私も同じようなもので生活と志のギヤップは別の電話で
今朝も指摘されたばかりだったのでHさんの話を聞きながら一緒に落ち込みそう
になった。電話が終わってすぐ尾道から来札中の岡和田直人さんが来た。今月
野上裕之さんの前に展覧会をしたいという話だった。なにか溜まっているのだ。
眼がキラキラしていた。以前大木裕之さんの映像個展の後個展をして以来だ。
寡黙な彼がネパール滞在時のデッサンを見せてくれ色々と喋った。彼が帰った
後朝からの重たい気持ちが少し軽くなった。岡和田さんが生活の重い雪に落ち
込む気持ちを”ほろって”くれたんだなあ。きっと。

by kakiten | 2006-12-03 11:49 | Comments(0)
2006年 12月 02日

種子と破片Ⅱ-冬のいのり(36)

声の持つ直接性、音の保つ直接性それはある意味身体性の保つ直接性のよう
に思われる。キースジャレットのケルンコンサートを昨日聞きながらふっと思った
。体が反応するのだ。別に私は音楽青年ではない。でも音楽というのは直に入っ
てくる。ジャズだけがそうだと言うわけではない。音楽という音がそうなのだ。眼よ
りももっと身体性をもってこちらにやってくる。この直接性のようなものを生き方に
置き換えるともっとはっきりしてくる。行動への渇望、欲求である。長く社会的制約
のなかで封印されていた直なる行動、内なる生き方への入り口が体の内部で開く
のだ。ノックされるのだ。若い時にはその落差が少ない。年齢を重ね社会的封印
が厚くなるほどその落差が大きい。音楽青年というジャンルの問題ではなく音とい
うサウンド、響きの保つ直接性がその封印を突き崩す。もっと素直に自分らしい生
き方への渇望が身を焼く。内部から突き動かされる。加齢しただけ厚い虚の自分
を実の自分に取り戻す熱い願望が身を焦がす。その時青い光が燃え上がる。何
をどうするか、どう生きるかその問いが深く潜行する。石田善彦さんの死に際の気
持ちが今そのように感じられる。昨日BOOXBOXの田原洋朗さんの話を聞いてそ
う思った。やはり亡くなる前に長い電話が来て音楽の話村岸さんの話を1時間以上
話していたと言う。音楽を生業にしている人たちへ彼は沢山話したかったのだ。そ
れは音楽青年であったと同時に音を通して直接開かれた自分の生き方への直接
性の回復そのものへの渇望、行動を語りたかったのではないだろうか。それはか
って黒ヘルメットで田無の三菱重工業に兵器製造疑惑の直接反対行動に参加し
た時の熱い血が騒いでいたのかもしれないし、南正人のライブで背広を脱ぎ捨て
演奏に参加したある日の石田さんだったのかも知れない。それは私自身が現在の
場所に来るまでに脱ぎ捨ててきた裸の自分を意識して思うことである。進退窮まる
一線で闘う生きる私を彼もまた激しく動揺する内なる自分を揺り動かされるように
見ていたのではないかと思う。その生き際に充分立ち会えなかった私を、今悔恨
のように見詰めている。音は身体を揺り動かし閉じられた魂の種子の扉を叩くのだ
。自分の時間を取り戻す”モモ”の闘いのようにね、そうだね、石田さんそうだね。
今は破片となった死者の身体から浮遊する種子は、私の土壌でそう語りかける。

by kakiten | 2006-12-02 12:59 | Comments(0)
2006年 12月 01日

種子と破片ー冬のいのり(35)

ミヒャエル・エンデの「モモ」ではないが、時間の花園に咲くそれぞれ固有の花の
種子を命の種子のように我々は保っていて、その命の土壌を場(トポス)と言った
りする。その土壌、環境、社会的状況と闘い、耕す行為を抜きに種子だけを言っ
ても仕方のない事は「モモ」の闘いと同じ事である。命の種子が土壌という文化
(カルチベート)の行為と合わなければ種子は只の破片となる。そして破片は只の
物、量数、数字になる。だから土壌を耕す行為を抜きに種子も花も語れない。一本
の樹、一叢の草、一輪の花がその事を当り前のように教えてくれる。今、漁師が山
に木を植える行為も海というその土壌の為なのだ。その行為が既成の分野という
狭い社会との軋轢、闘いを生む。その不可避な必然的な闘いがまたもうひとつの
場を生む。共感という同時代の旗がひらめく場である。「モモ」の闘いもそうだ。童
話が決して童話でないのはその謂いだ。すでに耕され定着した土壌を追われある
いはそこにブルトーザーが入り再び一から何かを為そうとする時種子は土壌を探し
浮遊する。そして命の種子は定着の為その土を根という手足で自ら耕すのだ。人
間という個も同じである。昨日の進退窮まる月末を越え一年前の状況を想いこの
半年の時間を顧み、何か自分を突き詰めて見詰めたかったのかもしれない。
漁師さんの話、モモの話、植物の話。分野の相違はあってもみんな自分に引き寄
せた話。M以前とM以後のちよっと淋しがり屋の話。そして足下を踏みしめる話だ
。私は破片ではないと。

by kakiten | 2006-12-01 11:30 | Comments(0)