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テンポラリー通信

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2006年 11月 07日

訪れる人ー冬のいのり(14)

21歳が人生で一番美しい時などと決して言わせはしないーポールニザンだった
と思うけれど死んだ村岸宏昭さんのホームページの隠されたブログを最近読ん
でその言葉を思い出した。前回引用させてもらった文章はここでの個展初日の
一文である。活き活きとした苦悩、洞察、恋心、そこには潔癖な22歳がいる。
今日突然石田善彦さんのお嬢さんが訪ねて来た。明後日帰京すると言う。コ
ーヒーでもと思って用意しているとその間置いてある一枚のCDを手に取りこの
古館賢治さんって私の高校の同級生かしらと言う。古館さんは前の店の閉店時
ラストコンサートを有本紀さんとしてくれまたそのCDは亜麻とホップのフラワー
ロードのテーマ曲として発売されたものだった。前のスペースで知り合った東区
のK氏が古館さんの声と演奏に惚れ込み依頼しできたCDである。私もその縁で
ライナーノートを書いていてここで販売用においてあった物だ。名前が珍しく同
級生と思うという。当時もギターで演奏をしていたとも言う。早速古館さんに電話
した。ふたりは同級生だったのだ。古館さんは石田さんの葬儀の通知にすぐメ
ールをよこしてくれその急な死に吃驚していたのだがここでまたそのお嬢さんと
実は同級生だった事で二度吃驚だった。その後故人の色々な話をした。途中
Kさんから電話が入り今近くまで来ているので出て来ないかと言う。急な用事の
ようだった。それを機に石田さんのお嬢さんの麻子さんが帰り私はKさんの指定
した北24条まで向かった。着くと色々現在のここでの状況を単刀直入に尋ねら
れ心配だと言う。四、五日前にもY君とS君が来ていた時訪ねてくれた。そして
その時私は血圧上がりフラフラして二階で横になっていたのだがその折私の顔
色が蒼くむくんでいて気になったと言うのだ。そして以前にも来た時いたふたり
がまた居てあの人たちは本当に友人かと言う。よくよく聞いてみるとどうやらそ
の道のおっかない人かと思ったと言う。え~そりゃあないですよと言うと最近は
可愛い顔してもおっかない人が多いと聞くからねえと答えた。もっともふたりとも
無精髭で椅子にもたれてあぐらをかいた感じで石田さんの事や共通した音楽の
話を寛いで喋っていたし私は蒼い顔して生気なく奥から出てきたのでてっきり
吊るし上げでも食らっていたのかとカン違いしたようだ。そんな変な借金は一切
無い、また彼らはこうこうこういう人でと言ったらこのブログも読んでいたので
すぐ誤解は解けた。Kさんは本当に真っ直ぐで直截な方である。それにしても
誤解されたふたりはとんだ事であった。寅さんでないけれど今度会った時は
仕切り直しをしなければねえとKさんが笑った。石田さんの死後もまだ色々な
訪問者が続く。でもお陰で少し落ち込んでいた気分が転換した。

by kakiten | 2006-11-07 19:58 | Comments(0)
2006年 11月 06日

さようならと総括ー冬のいのり(13)

暖かい雨が降っている。夏の終わりが残っている。冬の始まりと夏の終わりが行
き来している。さようならと総括。総括の時間が長いなあ。紅葉が雨に濡れて綺麗
だ。何の変哲もなかった木が凄く綺麗だ。歩いて見た途中の一本の木。円形に地
面の落ち葉を従えてそこだけがまあるく天地を繋いで一本の世界があった。命、革
(あらた)める時間。命、燃える個展の時間がある。雨が色彩を磨く。曇天の灰色の
空気が色彩を深くする。雨が音を吸う。一本の木の自然は自死も美だ。葉という衣
の解体、その死も美である。それは命の充実があるからだ。人間や動物にはそん
な死があるのだろうか。さようならと総括。生きている事の親しい曖昧。その曖昧さ
に死は容赦なく結界を轢く。曖昧なる生は一瞬息を止めうろたえるのだ。セキをした
りタバコを吸ったりアタマを掻いたり意味のないことを繰り返すのだ。でもそんな事
が90%を占めるのが掛け替えのない生の時間だ。一本の木と同じようにいつも紅
葉の美学にはいない。何の変哲もない姿をしている。だから死者は死の特権で生
者を責めるな。君たちは死の象嵌で紅葉の美学の内に居るのだから。さようならと
曖昧なまま総括。そして生きていく誇りにおいて、さらばと総括する。もう生きている
時の親しい曖昧さは捨てるよ。未練に棹さすさようならはもう言わない。時々一枚
のCDを聞くようにこの生きている曖昧な時間のなかで君の人生という曲を聞かせ
てくれ。そして君たちの人生はひとつの作品だったよと、時に確かめさせてくれ。

 初日を終えて、ホッとしている。

 書かなければならなかった多くの暗い話しを、
 もう書かなくてもいいのかも知れない。

 必要の無い小細工はいらない。

 美しい瞬間は、ゆっくりとだが、確実に到来する。

 (muraguishi・blog・July18・2006「展覧会」)


 

by kakiten | 2006-11-06 12:09 | Comments(0)
2006年 11月 04日

空は水色,鳥が飛びー冬のいのり(12)

言葉(ことは)となってあふれる、音(おと)となってあふれる、色彩(いろ)となって
あふれる、函(はこ)となってあふれる。そのあふれる時間を共有した人たちが逝く
のは寂しい。しかし逝って初めて気が付く事も在る。くっきりと死が輪郭を造ってく
れる。生のあふれた時間を死が象嵌するように刻印するのだ。生きている時間の
親しい曖昧さが消える。ロバートジョンソンを語らせれば止まらず、バッハを語ら
せれば止まらず。盛夏の死者と初冬の死者が共通して保っていたのは”あふれ
る”音楽への想いだった。今、そう思う。
石田さん追悼コンサートの申し込みがふたつあった。ここで、ここでしたいと言う。
そうだね、もう止まってしまった追憶の時間があふれて溶けるならそれもいいね。
俺、ふたりの生き目に立ち会っていたから、死に目の追悼はいらないぜ。

by kakiten | 2006-11-04 12:28 | Comments(0)
2006年 11月 03日

お通夜の後ー冬のいのり(11)

円山北町の小さな葬儀場で石田善彦さんの葬儀がひっそりと行われた。見知った
人も何人かいたが急なこともあり石田さんの仕事、交友範囲の広さに比べれば少
ない参列者の数だった。葬儀委員長もいなく葬儀屋さんが職業的に仕切っている
私には寂しく感じる葬儀だった。喪主のお嬢さんがひとり気丈に自分のなかの父を
確認するように挨拶をした。それが印象的だった。葬儀が終わり出る時にジャズピ
アニストの田村誠次さんに肩を叩かれた。彼は忍路で菓子工房を立ち上げ今春
独立したばかりである。前のスペースではグランドピアノを彼の自宅から持ち込み
一年ほどライブスペースを共に運営した友人である。彼のヤマハのグランドピアノ
があった時こそ石田さんと出会った時期だった。田村さんもまた心に深く想うことが
あるのだ。自然と我々は近くの喫茶店で話した後円山北町時代よく行った居酒屋
楽屋へと向かった。途中明るく灯火の漏れる旧中森花器店の前を歩いた。白樺の
木がたっぷりと葉を揺らしている。両脇のマンシヨンに挟まれてやはりそこだけが
深とした存在感のある空間だった。”どうです?やはり・・”と田村さんが呟いた。信
号を渡り地下の楽屋へと入る。久し振りだ。何も変らない笑顔で店主の軍夏〈いさ
か〉さん、りつちゃんがいた。”石田さんのことブログ読んでいましたよ”と言う。私は
もうここの街から去った人間だが私以外は建物も白樺もみんなそのままでふらりと
来た今日も変らず今何をしているかも知っているように接してくれる。嬉しかったな
。田村さんが話し出した。”石田さんの出版記念会を中森さんの所でした時僕が
ラウンドミッドナイトを弾いてそれが石田さんとの出逢いだった。それから石田さん
のこの場所への想いを知り僕も本気でここを応援しようと心に決めた”そんなふた
りの経緯が初めて語られた。昨日ブログを書いていて気が付いた事が現実になっ
た。田村さんと石田さんの友情はあの空間への愛ともいえるものだった。音楽を
通したふたりの友情は同時にあの空間のなかで育まれてもいた。そして様々な事
情で田村さんが去りあの空間から私も去り石田さんの心にきっとぽっかりと淋しい
穴が空いていたのかも知れない。田村さんと彼のピアノがあった時それがきっと石
田さんの輝く時間、音楽青年石田善彦の青春のような時だったのかも知れないと
私は田村さんに語った。田村さんの目が心なしか潤んでいた。生と死それを超えた
次元がきっと在るはずなんだ。今日ここに本当に嬉しそうな顔をして石田さんがい
るよ、一緒にビール呑んでるよ。中森と田村がこんなに久し振りで肝胆合い照らし
て飲んでるのを目を細めて嬉しそうにしてさあ。僕らは本当にそんな気がしていた
のだ。この一夜は間違いなく石田さんがセットしたものだった。音楽に生きようとす
る田村誠次。その心根が激しく燃えた空間に石田善彦の音楽への熱い情熱もまた
火を灯していたのだ。そして村岸さん、そんな石田さんの時間にあなたもまた棹さ
していたのです。寂しい石田さんの心に今の空間を繋げてくれたのです。図らずも
葬儀の夜再会したジヤズピアニスト田村誠次さんとの話の内に私のなかの石田善
彦は青春の音楽青年として鮮やかに甦ってきたのだった。帰り際石田さんの為に
追悼コンサートをしたいと田村さんがポツリと呟いた。いいね、やりましょう、私は応
えた。

*石田善彦ー早大法学部卒業後、音楽雑誌のライターを経て翻訳家に。日本推理
 作家協会会員。訳書に「捕虜収容所の死」「スパイの誇り」新刊「眼を開く」など多
 数。代表訳書に「僕はアメリカ人のはずだった」(デイヴィット・ムラ)がある。

by kakiten | 2006-11-03 13:21 | Comments(0)
2006年 11月 02日

石田善彦さんのことー冬のいのり(10)

真夏の異郷の川で、初冬の自宅の寝室で、年齢も環境も生きてきた時間も全然
違うふたりがどちらも不意の死を遂げた。しかしこのふたりが一度だけ焼き鳥屋で
酒を酌み交わし音楽の話をした事があった。同席した私には専門的な事で詳しくは
理解できなかったが後日その一人22歳の若い村岸宏昭さんの事をもう一人の石
田善彦さんがひどく感心していたのだ。親子は程も年齢の違うふたりは音楽を通し
て互いに尊敬の念をその時抱きあっていたのだった。翻訳家としてすでに確固たる
仕事を成し遂げていた石田さんはかって「新譜ジャーナル」という音楽雑誌で村上
春樹や筑紫哲也たちと共に音楽批評の最先端に身を置いた人でもある。時に酔う
とギターを片手に唄いその低く響く声で聞くものを圧倒したのだ。三年ほど前の夏
今は東京に居る吉田直樹さんの個展の時石田さんが彼の作品の前で唄ったシー
ンは今も私の脳裏に鮮やかである。その時「芸と食」と題して一週間個展の間日替
わりで料理を提供するイベントも同時にしていて、石田さんは火曜日の担当でスパ
ゲッテイを作ったがこの料理の腕もたいしたものだった。イカスミのスパだったと記
憶する。中国風のお茶から始まり彼流のコースがあった。その時もギター片手に
唄って吉田直樹さんが携帯で録画し後でみんなで見て大笑いをした事があった。
唄いながら途中でカメラに気付き歌の調子が狂うのだ。その時唄っていた歌が暗く
思い入れたっぷりだったのでそのコケ具合が可笑しかった。♪朝が~なぁい、うん
?という感じだった。本人は真面目に真剣だったので笑うと大層気を悪くしていた
が。ドブローのギターに憧れていてその演奏をよく口三味線のようにして弾き語り
をした。これがよかったなあ。あの頃ジャズピアニストの田村誠次さんがグランド
ピアノを店に持ち込んでいて石田さんも青春時代の音楽への情熱があの場所で
甦っていたのかも知れない。今の場所になってから初めて村岸さんと会ってその
片鱗があの晩こぼれたのだろうか。前のスペースではロバートジョンソンやビヨー
ク、ビリーホリデイ、ブルーススプリングステーン、シンデイーローパー、ビリージ
ョエル等「ポップソングを訳す」というカルチヤー講座も開いて彼の音楽への想い
が花開いていた。もし亡くなったふたりがさらに深く交流を深めていたらまた別の
音楽への開かれた空間がここで構築されていたかのかもしれない。しかし彼にと
って翻訳という生業と音楽という青春が前の円山のスペースでは幸せな合流をし
た時間だった気がする。今日その円山北町で葬儀が行われるのも不思議なめぐ
り合わせである。石田さん!村岸さん!想う存分音楽を語り合って下さい!そし
て最後にここでも音楽の友に会えてよかったね、、、石田さん。

by kakiten | 2006-11-02 13:04 | Comments(0)
2006年 11月 01日

石田善彦さん逝くー冬のいのり(9)

突然の訃報だった。内海真治展最終日搬出も終わり中川潤さんと酒井博史さんと
がら~んとした会場でなんという事なく飲んでいた。内海さんも帰った後だった。中
川さんがふっと石田さんの所のストーブの修理に10日ほど前行ったが電話しても
出て来ずすっぽかされたという話をしたのだ。その何日か前ここで山内慶さん酒井
さん花田和治さん石田さんが集まって話し込んだ日があった。その時ストーブの修
理の話が石田さんから出て中川さんに頼もうかという事になったのだった。で結局
20日に中川さんが行くことになった訳だがその約束の日に近くから電話しても通じ
なかったと言う。そりゃおかしい頼んで約束の日に居ないなんて、という訳で私が
石田さんに電話をした。すると若い女性が電話口に出た。あのーとこちらの名前
を言うと”娘です”と言う。続いて”父は死にました。私も昨日東京から着いたばか
りです””え!何時ですか?”と言うと”20日か21日頃のようです。近くの友人が
お借りしたCDを返しに来たら電気が点いてるのに応答がなく変だと思ってなかに
入り発見したのが一昨日です。”と言う。吃驚だった。お通夜は11月2日午後6時
中央区北5条西22丁目北円山ホールと言う。告別式は3日午前10時同所で執り
行われる。10日余りも経って発見された訳だが多分中川さんが近くのコンビニか
ら電話した20日が死んだ直後だったのかも知れない。16日にここで会った時南
の沢の自宅まで車で送って行ったのは酒井さんでその後電話で話をしたのは中川
さんなのでここの関係に限れば共に最後の声と姿を見聞きしたのはこのふたりで
ある。そのふたりが揃っている時死の報告を受けた事になるのだ。そして何故か
南区の端に近い石田さんの住居なのに葬儀場は円山北町で行われるのである。
私には前の円山北町の空間で知り合った石田さんとのこの四年間がやはり円山
のゾーンと共にあったような不思議な因縁をその時感じたのである。名翻訳家にし
て心優しい人であった故人の知られざる躁と鬱の内面を最後に去来したものは何
だったのだろうか。今はただただ故人の冥福を祈るのみである。合掌。

by kakiten | 2006-11-01 17:08 | Comments(3)