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テンポラリー通信

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2019年 10月 08日

一身(いっしん)-子の近代(8)

牡鹿半島・鮎川。
詩人の家・古い酒屋の店奥に座す吉増剛造の姿を見た時、ふっと
祖父の姿を想い出していた。
札幌都心部では市街地再開発法により都市の高層化が推進され、
こうした商店主が消え、多くの店はテナント・ショップと化した。
そして店の土地家屋は資産の持ち主=オーナーと名を変える。
生業(なりわい)の内にすくっと座す店主の姿が消える。
この時私の生まれた町内では明治生まれの老書店主が、私達地権者に
病床より<友軍三将に告ぐ>と記した書を送り、公的訴訟を提起した。
書店の奥の一段高い、店内を見わたす位置に座し、時に長く立ち読み
する子供たちに、本の埃を払うようにハタキを掻ける事もした。
子供心にもどこか畏れ敬う、その道専門に生きる人のオーラがあった。
幼少年期の身近な風景・空気。
生きる人の<身>の姿が甦った。

吉増剛造は1992年春客員教授として地球の裏側のブラジルに旅立った。
そこで明治以降蓄積され培養された日系移民社会に遺る純粋な日本の精神
風土と出会い、戦後育ちの詩人は多分そこに多大な衝撃を受け蟄居・自己
幽閉状態に陥った。(裸のメモー「木浦通信」・矢立出版より)
帰国後再生を志し、ブラジル行前年明治生まれのモダニスト・大野一雄の
舞った石狩河口に滞在し「石狩河口/坐ル」を実行する。
そして石狩川支流夕張川源流を遡上し名作「石狩シーツ」を著した。
2011年3・11以降「石狩河口/坐ル ふたたび」の試行を戦後
近代の根の再生として今に至るまで続けている。
今回北上川河口域に近い牡鹿半島先端鮎川に座し、自らの<身>の
坐ル→座ル・姿を<身>を以て曝し、近代/現代の(さかい)に<座>
していた気がする。
私が牡鹿半島先端・鮎川で見た吉増剛造の<身>の置き様とは、私の
記憶に遺るある時代までの店主の身の置き所に近い。

近代と現代の境目が、今音もなく静かに加速して顕れ始めている。
荒涼たる破壊の廃墟を生む原子力・バクダンは、安心・安全・便利の
原子力・ハツデンに変わる。
店主がオーナーになり、店がテナントになり、座るが腰カケルになり、
身(み)という言葉がボデーとなっていく。
即物的で身も蓋もない並列的で踵喪失の今が速度を上げている。
それが現代的というなら、今こそ近代そのものを問わねばならぬ。
吉増剛造の坐ル→座ルは、近代の原点から現代への静かな逆襲。
現代へのラデイカル(基底的な)界(さかい)への挑戦だと思える。

 テンポラリ―スペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503



# by kakiten | 2019-10-08 16:54 | Comments(0)
2019年 10月 05日

牡鹿半島・鮎川への旅ー子の近代(7)

  。。。。。
 「さよなら、太陽も海も信ずるに足りない」
  Мよ、地下に眠るМよ、
  きみの胸の傷口は今でもまだ痛むのか。

鮎川信夫の「死んだ男」の最終章が、今度の旅のトニカのように
響いている。

木造の古い酒屋の家で、詩人の家を2ヵ月開いた吉増剛造。  
旅人を迎え、食事を共にし、一泊の宿を提供する。
生業の最前線に、詩人の店・主として座っていた。
3・11の深い傷跡遺る、牡鹿半島先端の地鮎川。
半島は樹木が緑深く海に挿す、海と空・光の半島。
先に着き仙台空港に迎えに来てくれたKA君とKI君。
彼らの運転するレンタカーに乗り、2時間程経て緑の傾斜
曲がり道の続く牡鹿半島を走る。
北の人間には珍しい森の植生。
鹿の親子も見る。
そして森が途絶え、海が見える。
新たに建造された防潮提の高い壁が海辺の視界を遮っている。
2ヵ月3.11の現場で詩の一生業主として滞在した吉増さんの
最終日の一夜。

二日滞在した牡鹿半島と石巻市。
半島には太陽と海と高い防潮提建造現場。
都市には津波で廃校の小学校とその前の墓石群。
大きな災害の後の<荒地>。
そして私には、戦後間もない昭和22年に発表された鮎川信夫の
「橋上の人」の一節が太陽と海の光と共に響いている。

 あなたは聞いた。
 氷と霜と蒸気と熱湯の地獄の呵責に
 厚くまくれた歯のない唇をひらき
 溺死人が声もなく天にむかって叫ぶのを・・・・
「今日も太陽が輝いているね
 電車が走っているね
 煙突が煙を吐いているね
 犬は犬のなかで眠っているね
 やがて星がきらめきはじめるね
 だけどみんな<生きよ>と言いはしなかったね」

一昨年の栃木県南那須・足利市・吉増剛造展。
昨年の沖縄・那覇・豊平ヨシオアトリエ。
今年の宮城県・石巻市・鮎川・詩人の家。
内陸の山を主体とする風土。
外陸の海を主体とする島・半島風土。
そうした宇宙・地球・自然に隣接する人間社会に触れて
日本の近代モダニズムが背負った負の近代を現代の事と
して、鮎川信夫の詩を通して深く感じた旅だった。
原子爆弾を頂点とする戦災と地震・津波・原発の災害とは
一見違うようだが、その本質は人間社会の在り様として変わ
らぬ構造的なものがあるような気がする。
私がこの濃い二日間で感じていた基調低音(トニカ)は、同
時代としての<荒地>だった。

 橋上の人よ、
 彼方の岸に灯がついた、
 幻の都市に灯がついた、
 運河の上にも灯がついた、
 おびただしい灯の窓が、高架線を走ってゆく。
 おびただしい灯の窓が。高く空をのぼってゆく。
 そのひとつひとつが輝いて、
 あなたの内にも、あなたの外にも灯がともり、
 死と生の予感におののく魂のように、
 そのひとつひとつが瞬いて、
 そのひとつひとつが消えかかる、
 橋上の人よ。

明治・大正・昭和近代77年ー戦後近代75年。
鮎川信夫の記した<近代の橋上>は今も変わらない。

 窓の風景は
 額縁のなかに嵌め込まれている
 ああ おれは雨と街路と夜が欲しい
 夜にならなければ
 この倦怠の街の全景を
 うまく抱擁することができないのだ
 西と東の二つの大戦のあいだに生まれて
 恋にも革命にも失敗し
 急転直下で堕落していったあの
 イデオロジストの顰め面を窓からつきだしてみる

「繋船ホテルの朝の歌」4連目のこの風景は、まるで1960年代
以降の岸上大作や奥浩平の安保闘争以降の風景のように今見える。

2011年三月十一日から8年を超えた被災地の風景は、私には
この鮎川信夫の詩の風景と変わらぬ風景を、見詰めていた気がする。

宮城県石巻牡鹿半島・鮎川は、戦後詩人鮎川信夫への旅でもあった・・・。

 テンポラリ―スペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
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# by kakiten | 2019-10-05 17:37 | Comments(0)
2019年 09月 25日

秋・訪問者ー子の近代(6)

何年振りだろうか・・。
Aさんから電話が来た。
アメリカ・シアトルに在住の人だ。
ネットで調べ、テンポラリー通信を見つけ電話したという。
円山北町時代、多くの友人たちが集まった喫茶店の女性オーナー
だった。
1980年~1990年代だからもう30年近くなる。
アメリカ人と結婚してシアトルに行き、それから一度里帰りで
お子達を連れて会って以来だ。
私が今のところに引っ越してから、居場所が分からずにいたらしい。
父上の体調が勝れぬらしく、今度帰国した時寄ると話は終わった。

秋、なんだなあ~。
遠い近いに関わらず、人が尋ねて来る・・・。
今度訪問する予定の東北・石巻北上河口鮎川。
この鮎川という地名も私には不思議と地名の訪問者という感じを
与えられる。
かって20代に書いていた詩人の鮎川信夫を想い出させるからだ。
そして大野一雄・慶人さんの父子、斎藤周さんの父子と触れて
近代と現代の界(さかい)を個のうちに見詰めていた時、鮎川信夫
の戦後を代表する長編詩「橋上の人」を改めて読み返していた。
英国の詩人ヴァレリーに傾倒し戦後現代詩の地平を切り開いた
鮎川信夫。
日・米英の太平洋戦争下、自らのモダニズムを封印し、戦後米国
ならぬアメリカという共和国(ランド)への夢と理想を、後に封印
される長編詩「アメリカ」で熱く語った1947年の戦後時代。
そこに象徴的に「橋上の人」で<父>という呼び名で顕れる、鮎川
信夫の戦後近代。
明治以降の近代化=欧米化が日・米英戦争で失墜し、敗戦後米国が
アメリカ的開放として一瞬もたらした自由・平等・デモクラシー。
その戦前欧米モダニズムと戦後アメリカモダニズムの両岸を架橋する
日本近代が鮎川信夫にとっての「橋上の人」の位相だったと思える。
鮎川信夫にとっての近代とは、後の世代の私達にとっても深い踵の
位置に存する近代と思われる。
明治・大正・昭和のある一時代まで存したモダニズムを、鮎川は父に
例えて「橋上の人」Ⅶ章で幾度も呼びかけている。

父よ、悲しい父よ、・・・
父よ、寂しい父よ、・・・

父よ、大いなる父よ、・・・ 
父よ、大いなる父よ、・・・
父よ、大いなる父よ、・・・

この父の位相と、戦後すぐ1947年に書かれ消された長編詩「アメリカ」
の数行・・・。

 「アメリカ・・・・」
 もっと荘重に もっと全人類のために
 すべての人々の面前で語りたかった
 反コロンブスはアメリカを発見せず
 非ジェファーソンは独立宣言に署名しない
 われわれのアメリカはまだ発見されていないと

ここに私たちの今・現代と父なる近代の界(さかい)が立ち
顕れる。

米国・アメリカーシアトルから届いた一本のAさんの電話が
牡鹿半島の鮎川へ旅立つ前、鮎川信夫からの米国・アメリカ・
3.11、近代から現代への時の川150年余の橋上の人の声の
ように聞こえる。

*花小屋ー9月30日まで。

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# by kakiten | 2019-09-25 14:26 | Comments(0)
2019年 09月 12日

東北から。東北へ。ー子の近代(5)

札幌にほぼ月一度ℍ大学出版の指導で来ている元東大出版会代表の
竹中英俊さん。
今月も仕事で来て今日寄ると連絡があった。
夕刻2階事務所にいると、入口で声がある。
あっ、来たなと思い階下に降りると、背の高い別人だ。
なんと、秋田の民芸・海青舎の三浦正宏さんではないか・・・。
1990年代円山北町に今のテンポラリーや器のギャラリーが
あった時、毎年全国の民芸作品を展示していた人である。
北海道工業大学で橋梁工学を専攻し、建築会社に一時務めたが
橋を自然の中に多く構築する事は自然破壊と感じて退社し、故郷
秋田市で民芸の店を立ち上げた。
北海道工業大学の恩師菱川善夫先生に相談し、私の所を紹介され
訪ねて来たのが縁の始まりだった。
菱川先生が名付け親となり、彼の民芸の店は「海青舎」として出発
し、その後毎年器のギャラリーで秋田民芸の展示を催す事となる。
秋田の民芸を基本に後年は全国の民芸品を、主題を定め蒐集し展示した。
例えば<祈り>を主題に各地に遺る民芸の造形とか、時に秋田の駄菓子
展や地酒の展示とかも企画した。
それらが好評で、毎年初日オープン前に人が待っている事も出現した。
その後私は現在の北18条に移転し、関係が途絶えていたが、一昨年
北海道近代文学館で民芸の祖柳宗悦展があり、柳が推進した民芸運動の実物
として三浦さんの蒐集した民芸品の多くが同時に出品された。
かって展示で記憶されていた多くの優れた各地の民芸名品が会場に
展示されたのだ。
そのオープニングで十数年ぶりに私は三浦さんと再会した。
最初に発した言葉・・・。
”ほとんど、円山の器のギャラリーに展示したものですよ・・・。”
彼は時にこのブログを読んでいたらしく、昨日意を決して今回訪ね
て来た。
来年ここで展示をしたい、その気持ちを伝える為である。

再会の話をしていると、竹中氏も訪ねてきて三浦氏を紹介する。
竹中さんにも何度か彼の話はしていたので、直ぐに打ち解ける。
竹中氏は宮城県の出身、同じ東北地方の出だ。
竹中氏の古書蒐集の話と書物への愛は、どこか三浦さんの民具蒐集と
民芸への愛と共通する。
掌(てのひら)を通した人と物の関係性として共通する。
そんな事もあって、とても初対面とは思えないふたりだった。
和紙の書物は本来人の掌を通して紙が馴染み、掌の脂が紙を丈夫にし、
風合いを増し長持ちさせるという。
民芸もまた人の掌(てのひら)を通して使われ、掌(たなごころ)に
磨かれ存在する。
根本的にはある時代まで人と物とはそうした掌の関係性に於いて繋がり
存在したのだ。
ふたりの今回の偶然の遭遇は、人と物の深い関係がそのまま人間関係
として実現した必然のようだった。

吉増剛造さんが、宮城県石巻市北上河口鮎川に滞在し制作している。
遺された古い商店の民家に住み込み、写真で見るとまるで商店主の
ように座り訪れる人を迎えている。
客は吉増さんの制作を見、話し、食を共にし、一泊して一日を
共に過ごすという。
全身詩人吉増剛造ならではの、3・11の爪痕が今だ遺るという
北上河口での全身試行・生業(なりわい)の行である。
3・11以降戦後吉本隆明の処女詩集「日時計篇」に真摯に向き合い、
自己の戦後近代を見詰め直してきた吉増さんの全力投球の現在なのだ。
re born art festival 2019と名されたこのイヴェントは、中沢新一はじめ
7か所の地域に7人のキュレーターが企画し作家が制作し作品展開されて
いる。
その内の鮎川という牡鹿半島の先端地域が吉増さんの滞在地だ。
地域全体のパスポートが送られて来た。
吉増さんからの招待だ。
女坑夫さん記載の夕張「北上坑」看板出現以来、北上河口へは行かねば
ならぬと心に決めていた。
1991年秋「石狩の鼻曲がり」大野一雄石狩河口公演。
1994年初夏「石狩シーツ」吉増剛造夕張行「女坑夫」遭遇。
山奥の夕張石炭坑道口に記された「北上坑」の名と共に在った女坑夫の
記載。
石炭という近代エネルギーの産炭地から、現代のエネルギー石油と原子力
貯蔵の河口へ、女坑夫さんと共に、私も行かねばならぬ・・・。
そんな気持ちがしていた。
亀井文夫監督「女ひとり大地を行く」では、主人公の女坑夫さんは
東北出身と設定されていた。
「北上坑」と名付けられた坑道の被害者の中に北上川流域の出身者も
いたかもしれない。
そんな想いで吉増剛造の「石狩シーツ」のコア<女坑夫>さんとともに
北上川河口へ、吉増剛造を尋ねよう、と想い立っている。

近代以前の深い物と人の回路、古書と民芸。
それが東北秋田と宮城の人の姿をして訪れて来た。
そして宮城の北上川河口3・11が、現代の根のように呼んでいる。
私にはそんな気がするのだ。

*花小屋ー9月末まで。

 テンポラリ―スペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
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# by kakiten | 2019-09-12 15:47 | Comments(2)
2019年 09月 08日

鮎川信夫の父・位相ー子という近代(4)

大野一雄展、斎藤周展に触発されて戦後詩人鮎川信夫に
想いがいった。
鮎川信夫にとっての父とは何だったのか、という問いである。
たびたび引用した戦後詩を代表する名作「橋上の人」には
その父を主題とする(Ⅶ)の詩章がある。
 
 父よ、
 悲しい父よ、
 貴方がいなくなってから、
 がらんとした心の部屋で、
 空いた椅子がいつまでも帰らぬ人を待っています。
 寒さに震えながら、
 貴方に叛いたわたしは、
 火のない暖炉に向かいあっています。
 父よ、
 寂しい父よ、
 わたしはひとりです。
 妻も子もなく、この広い都会の片隅で、
 固いパンを齧っています。
 わたしは貧しい、
 わたしは病んでいる、
 貴方がわたしに下さったものはこれだけですか。

1965年出版された荒地出版全詩集では、「父の死」という
21行ほどの短い詩がこの「橋上の人」の後に載せられている。
この詩は実際に父が死んだ時の心の動揺を伝えている詩だ。
では長編詩「橋上の人」の<父>とは、何の謂いなのか。
それは私には鮎川信夫の内なるモダニズム・近代の謂いと思われる。
徴兵され一兵士として日米戦争に参軍し帰国した鮎川自身の深い想い
が、戦前のモダニズム・<父>という比喩になっている気がする。
欧州の独裁国家ドイツ・ヒットラーとイタリア・ムッソリニーと三国
軍事同盟を結び、米英に宣戦布告をし始まった太平洋戦争。
明治以降の西洋化・欧米化・近代化の流れは鬼畜米英のスローガンの下、
鮎川が詩の上で傾倒し実践したモダニズムの灯は、正に踏みにじられたのだ。
大野一雄も鮎川信夫も、その詩のその舞踏の領域に於けるモダニズムの
灯をモダニズムの焦土の近代から身を以て耕し、育て続けたのだと思う。
戦後近代とは米国占領下の自由の理念の下、朝鮮戦争の新たな東西冷戦
により特需景気ー神武景気と経済の発展で明治近代の破綻・戦後近代の
迷妄と再びモダニズムの根幹を埋没しつつあった。

鮎川信夫や大野一雄が戦前戦後を通底し身を以て遺した、真の近代の芽を
私達は私達自身の内なる根として忘れてはならない、と思う。

 教えて下さい、
 父よ、大いなる父よ、
 わたしにはまだ罪が足りないのですか、
 わたしの悲惨は貴方の栄光ですか。

私たちの現在という時代には、先んずる痛恨の父という近代が存する。
そこを見詰めずして、真の現代はあり得ない。

*花小屋ー9月末まで。

 テンポラリ―スペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
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# by kakiten | 2019-09-08 16:40 | Comments(0)
2019年 09月 05日

斎藤周展終わるー子の近代(3)

山が開いて内なる源流の一滴が、沢となり渓流となる予感のような
個展だった。
気難しいやんちゃな子という個室が、父という外界を認め開いた今
という近代への架構。
大上段に振り翳した時代論ではない。
父・子の小さなボタンの穴。
そこに深い心の個人的な理由が潜んでいる。
何時だって本当の時代とは、そうして訪れる。

私にもそうした記憶のボタンがある。
父に説教され拳骨を浴びそうになった時、母が発した言葉。
”お父ちゃん、もう時代は変わったのよ!”
母が近所の美容室で赤い髪に染め、活き洋々と家に帰って来た時
父・祖父にひどく怒られ、しょんぼりして元の黒い髪に戻しに行った時。
成人してその話を母にしたら、”変な事おぼえているわね・・”と言われた
記憶。
父が新しい学習机と椅子を手造りで造ってくれた時、傍で偶然見て
いた近所の同級生が、翌朝学校でみんなに学習机を購入しないで、手で造
ってた、とみんなの前で馬鹿にした時、そいつを思わず殴った記憶。
どれもが私の戦後近代が始まった遠い記憶なのだ。

明治30年創業の老舗を守りつつ、新たな風を業界に吹き込み
生業(なりわい)の世界を広げた父の戦後近代。
父の死後市街地再開発のさらなる時代の変化に、家業よりオーナー
として世界を広げようとした母の戦後近代。
<家>=土地・家屋資産が比重を増す時代に、<生業>は、ビルの
片隅に埋もれていった現代。
店主も客もオーナーと呼ばれ、今はその浸透度がさらに増している。
そんな時代に、遠い小さな個人的記憶のボタンの穴は、本当の時代を
見通す回路を想い出させてくれる。
量産された学習机セットを購入するのが普通になった時代。
その時代に私の為に手で木を削り組み立てた父の新しい学習机・椅子。
幼い心にも、私はそこに父の愛情を感じていたのだ。
”時代は変わったのよ・・・”と、父を諫め、時に髪赤くを染めた母。
そのどちらもが、私の遠い父なる、母なる近代だ。

・・・
 ポケットのマッチひとつにだって
 ちぎれたボタンの穴ひとつにだって
 いつも個人的なわけがあるのだ

                (鮎川信夫「橋上の人」から)
 
 彼方の岸に灯がついた。
 幻の都市に灯がついた。
 運河の上にも灯がついた。
 おびただしい灯の窓が、高架線の上を走ってゆく。
 おびただしい灯の窓が、高く夜空をのぼってゆく。
 そのひとつひとつが瞬いて、
 あなたの内にも灯がともる。
 死と生の予感におののく魂のように、
 そのひとつひとつが輝いて、
 そのひとつひとつが消えかかる、
 橋上の人よ。

                 (同上最終章から)

この戦後間もなく発表された鮎川信夫の「橋上の人」は、戦後近代が
今に続く光景のように、瞬いている気がする。
周さん、私達もまた親なる近代から現代への「橋上の人」・・・。

*「花小屋」9月7日~30日。不定期・非展示。

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# by kakiten | 2019-09-05 16:38 | Comments(0)
2019年 08月 31日

父という近代・標(しるべ)ー子の近代(3)

描線が何かを発している。
山裾から山頂に上がる視線ではない。
頂きから山裾へ、溢れ出て流れる描線だ。
今回の斎藤周展のモチーフ。
三角の山のようなモチーフが多々顕れている。
しかしこの山のモチーフは、仰角の視線ではない。
頂点から裾野へ拡がる展開の兆し。

数年前広い山裾を登る人の後姿の絵があった。
先頭を行くのは大人の男。
その後に女性と少年の後姿が続いている。
次に発表された個展覚書で、ニセコ・ヒラフで少年時代父と行
ったスキーの記憶が懐かしく語られていた。
そして昨年初めて父の建てたアトリエ兼住宅の木造2顔建て
の実家が描かれた。

同じ絵画の道を歩んだ父と子。
父の時代、近代日本は米国占領によって齎された民主主義の
理念の下戦後近代という時代が始まった。
地方自治が民主主義のひとつの大きな柱であり、院展・帝展に
代表される中央主体の美術公募組織から、地方独自の公募展が
生まれた。
北海道では、道展、全道展、新道展等々が設立された。
斎藤周さんの父上もそうした組織に属しながら絵画活動を続けて
いた。
子の周さんは、そうした組織に馴染まず、個としての活動を主に
絵画を描き続けていた。
そんな親子の見えない確執が、親子という繋がりよりも、社会的
意識の相違として父・子の間に在ったように思う。
何時の時代もそうした世代差・時代差はある。
しかしながら国家・社会の環境差は、父・子の決定的な差異ではない。
一昨年何十年ぶりにニセコの山でスキーをして身の内から沸き起こ
った父との記憶。
それが彼の育った父の建てた家の記憶に繋がる。
2階建て木造のアトリエ兼住宅を翌年絵画で再現させたのだ。
ニセコの山を先頭で歩く父。
楽しかった父子のゲレンデスキー。
父・子の時代的・社会的価値観ではなく、純粋に父の個の生き方で
あり、自分の生き方である、個としての視点から、父を再発見し、
溢れ出てきた心が、父の山・頂上の一点から溢れ出、流れる描線なのだ。
特に今展示のメイン大作には、その描線が大樹の根のように奔放に
強烈に溢れ出ている。
自己の源流の一滴が、まるで渓流となるように、父も含めた同時代
の大河へと流れ出したようだ。
父なる山が、父なる木造2階建ての家が、己の原点として、同時代
に向け発している。
父という近代を、個として感受し、認め、敬い、子の近代は磁場と
なって発している。
今回の展示は、国家・社会・時代に囲繞された近代ではなく、個の
裡から発した根枝のような斎藤周の父なる近代であり、彼の現代を
生きる標(しるべ)でもあるのだ。

斎藤周展「標」(しるべ)展、明日まで。

*斎藤周展「標」-9月1日まで。
 am12時ーpm7時

 テンポラリ―スペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503


# by kakiten | 2019-08-31 15:00 | Comments(0)
2019年 08月 27日

身(み)という事ー子の近代(2)

最近病を得てから、「身」という事を感じ、考える。
結論から先に言うと、<ボディ>ではないという事だ。
身も心も・・というが、身は心と一対である気がする。
対峙概念ではない。
もっと身を入れろ、身の丈にあった、身空・身の上、
身に沁みる、・・・等々。
身は精神的な事と深く関わって表現される。
フィジカルーメタフィジカルではない。
国家・社会・時代といった人間社会のインフラ環境を基底的に
超えた<身>という、個を起点とする人間が在る。
その人間の身から発する行為が、大きくいって表現という
生命の為す行為なのだろう。
国家・社会・時代に添って為す行為ではなく、身の内から
湧き出す源泉・源流のような、行為なのだ。

明治・近代化とともに生まれ育った大野一雄が、西洋舞踏の
表現に憧れ志しながらも、国家・社会・時代に囲繞され、身
も心も戦場へと拉致された青春。
そこから敗戦後這い上がり、舞踏という近代を、世界に発信し
続けた、身一つ・個の近代。
慶人さんは、親との国家・社会・時代の相違に翻弄され、10歳
で初めて見た少年期から父と呼ぶ事なく103歳の大野一雄を看
取ったという。
しかし死後10年近い歳月を経て、父を模した指人形を翳し
晩年父が愛した戦後米国を代表するエルヴィス・プレスリー
の歌曲「好きにならずにいられない」をバックに追悼した
真摯な舞踏には、指という身の一部になった父への、本当に
肉親への想いだけが、そこに何の隔たりもなく手を取って踊
っていた。
この静かな、動きだけ、指先の父を見詰める子の表情だけ、
の舞踏に、身も心も凝縮し結晶したふたりの時間が生まれていた。
慶人さんの表情は、父を想う心そのものだった。

近代とは、父や母の姿を模して顕れる。
現代とは、子の姿で問われるのだ。
近代・現代を繋ぐ回路は、<身>という生命の個。
時代・社会とは、そこから創り出す広がり、展開なのだ。

斎藤周さんの前々回からの絵画表現に、ふっと同じ絵画の道
を歩む父・子の近現代を垣間見て、<身の上>話のように
語ってみたかった。

*斎藤周展「標」-9月1日(日)まで。
 am12時ーpm7時:水曜28日午後3時閉廊。

 テンポラリ―スペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503


# by kakiten | 2019-08-27 13:46 | Comments(0)
2019年 08月 25日

斎藤周展始まるー子の近代(1)

前回ここでの個展では、斎藤周さんの幼少時の家屋がメインにあった。
父上の建てた木造二階建てのアトリエ兼住宅。
その家屋を懐かしさと愛情に満ちた筆致で描いていた。
その前に先立つ個展では、父とよく行ったニセコ・ヒラフのスキー場。
そこでの楽しい少年期の思い出が蘇り、長年の父子の美術家としての
対峙が消えて伸び伸びと描かれた山が出現していた。
幼少期過ごした家屋の絵画は、斎藤周の絵画歴で初めての事だ。
大野慶人と一雄父子に倣えば、この家屋は慶人さんの父を模した
指人形のように私には思える。
そしてニセコ・ヒラフのスキー場は、慶人さんが指人形で踊った
背後の音曲エルヴィスの「好きにならずにいられない」だ。
肉親としての父子が、国家社会の時代区別を超えて繋がり再生した
のだと思う。
形(かたち)と容(かたち)。
外的要素から見える形(かたち)と、内面から発する容(かたち)。
斎藤周さんの画業も時代社会という外在的要素から生まれる父子の
違い・対峙から、生き方・思想という内面的位相から父を見る容貌
という容(かたち)の顕れに転位してきたと私は思う。
今回の個展では、より自己に忠実に内面に根付いた根の分かれ、梢の
枝分かれのように裾野が開いている。
形容でいうと、形的には今までに無い細長い横長のキャンバス。
そこに描かれた長い山裾の山の容(かたち)。
画業を通して在った、父・子の繋がりと違い。
ふたたびの出会いが、ある成熟を保って今窺われているのだ。
洋画という近代が、父子の内面の葛藤を超え、開かれている。
こうした個の内面こそが、すべての出発に存する。
そこを抜きに真のかたち(形・容)は生まれない。
斎藤周のこの転位を、私は、嬉しくそう思う。

大野慶人さん、斎藤周さん。
戦後世代に、個として正当な近代が芽吹いている。
それこそが、我々の正当な現在。
現代へのホップ・ステップ・・・だ。

*斎藤周展「標」-8月23日(金)-9月1日(日)
 am12時―PМ7時:月曜定休日;28日水曜日午後3時閉廊。

 テンポラリ―スペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503



# by kakiten | 2019-08-25 15:40 | Comments(0)
2019年 08月 04日

体制としての近代ー大野一雄の戦後(11)

1929年大野一雄23歳、帝国劇場で初めてラ・アルヘンチーナ
を観に行き強烈な感動を受ける。
戦前昭和モダニズムの最後に近い時代・大野一雄舞踏の源流。
その源流は国粋化・戦争で踏みにじられ、流れはショートカット
され暗渠と化す。
大野一雄にとって敗戦後の近代化とは何だったのか。
明治以降の近代化・西洋化・欧米化の流れは、敗戦後米国の占領下
で米国化・民主主義が主流の近代化が進んだ。
今ある現在の社会的下地が、体制インフラとして整えられたのだ。

そこでふっと思い出した言葉がある。
三公社五現業である。
内容はもう不確かなので、古い辞書で調べる。

三公社ー国有鉄道・電信電話公社・タバコ・塩専売公社
五現業ー郵政・国有林野・印刷・造幣・アルコール。

今はほとんどが民営化された国家事業である。
そして官の体質を今も色濃く残す企業体だ。
こうして観ると、官の時代よりも民の時代の今の方が、より
官の体質が濃くなっている気もする。
最近の簡易保険不法勧誘問題を見ても、そうだ。
公社の<公>意識がお上(かみ)の目線で、パブリックという
<公>ではないままの気がするからだ。
アメリカが民主主義・デモクラシーとして植え付けようとした
公概念は、民を基底とする公(おおやけ)だった筈だ。
生活の基底を為す三公社五現業の公的位置は、民営化される前
の方がまだ社会奉仕的存在だった気がする。
民営化とはある面でアメリカ化・物流至上化であり、公から
民間企業の利益追求の現在として今がある。
新幹線・リニアカーに奔走し、JRタワーに象徴される国鉄に
それが顕著だ。
電信電話公社もまた然りである。
戦後の近代化とは、アメリカ化に象徴される近代でもある。
多国籍国家体であるアメリカは、ネーションという一民族を
主体とする国家ではなく、多国籍民族のランドとして成立し
ている経緯がある。
従ってその理念は、自由平等の民主主義が基底にあり、食物で
いえば、缶詰・トースト文化なのだ。
イギリスパン、フランスパン、ドイツパンのような民族個性は
薄く、平等なカット、トーストパンのような均一性が本質に在る。
アメリカンドリームが一攫千金であるように、多数決原理の普遍
風土が建国時から基底にある。
米国型民主主義とは、文化の保つ民族固有の個性とは合致しない。

大野一雄はそうした戦後文化の中で、日本固有の歌舞伎の伝統
女形・衣装の早変わり等の伝統文化を継ぎつつ、ダンスならぬ
独自の舞踏を創りだしてきた。
インフラとしての国家社会を通底し、宇宙・地球自然の地平に
立脚した生と死を往還する舞踏を続けていた。
グローバルという米国型物流の国際化ではなく、インターナショ
ナル、インターローカルな国際化を試みたと私は思う。
人類という人間に届く、公(おおやけ)の為の舞い・舞踏。
故郷函館で生まれ得た大野一雄の近代モダニズムは、エルヴィス
の唄・詞・曲を掴み大野自身のアメリカ・ランドを彼の戦った米国
から解放したと思える。

2010年6月死去した百三歳大野一雄は、その一年後の3月11日
東日本大震災、未曽有の災害を起こした原子力発電所事故をどう思
っただろう。
1945年8月破壊と廃墟の原子力・爆弾。
2011年3月人が消え無人の町を生んだ原子力・発電事故。
鬼畜米英の旗の下、平和利用の名の下、原子力による破壊。
戦後近代も破壊の形を変えた戦争、効率という名のショートカット
固有文化の暗渠化が露わになったのではないのか。
大野一雄の歩んだふたつの近代を、私たちは如何に受け継ぎ生きて
行くか、それは今も問われ続けている。


*追悼・大野一雄展ー8月18日まで。
*斎藤周展ー8月23日(金)-9月1日(日)

 テンポラリ―スペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
 tel/fax011-737-5503





# by kakiten | 2019-08-04 16:56 | Comments(0)