灰色の風景が沈んでいる。曇天の冬日。
ふっと中原中也の「冬の長門峡」の一節を思い出していた。
やがても 蜜柑のごとき夕陽
欄干に こぼれたり
あゝ!-そのやうな時もありき
寒い寒い 日なりき
T君の晩年の逸話は、この詩の<蜜柑のごとき夕陽>を思い出させた。
昨日、今日のような曇天の冬空に、彼の恋はそのように感じられたのだ。
晩年の彼は異常に肥満していた。その肥満を私は決して攻撃的な肥満ではなく、
自己防御的な肥満として感じていたから、中也の詩にある<欄干>と<夕陽>
の関係のように感じていたのである。
<経済的に決して迷惑掛けません、一緒になって下さい>
その一言に、<蜜柑のごとき>なにかを感じるのだ。
平凡な何の変哲もないこの言葉に、万感の一切の人生が掛けられている。
若くして菱川善夫さんに見出され、新人賞を受賞した過激にして繊細な歌人だっ
たT君の挫折と鬱屈を知る私には、この言葉は今、彼の心の欄干よりこぼれた
蜜柑のごとき夕陽のようにある。
人は他者に向かい、人生の終り近く如何なる回路を保つのか。
中也晩年の失意の中で生まれたこの詩にしてもそうだ。
口語自由詩の名手中原中也が、失意の中で自己律の支えのように
文語体で顕したこの詩にはぎりぎりのモラルがある。
T君の何の変哲も無いこの言葉にも、他者と関わろうとする
やはりぎりぎりのモラル(自己律)が込められている。
渓流で冷やされたビールは
青春のように悲しかった
峰を仰いで僕は、
泣き入るやうに飲んだ
同じ中也の「渓流」という詩は、夏の峡谷の詩である。
ここには<泣き入るやう>と表現される、沁みいるような内部がある。
それはあたかも根のように、梢のように光と水を浴びて立つている。
「冬の長門峡」ではその内部世界は閉じて、欄干に象徴される蹉跌があるのだ。
しかし、その欄干より溢れるものがある。
それは孤立した個の内側から、赤い心臓のように零(こぼ)れるものである。
やがても 蜜柑のごとき夕陽
欄干に こぼれたり
T君の晩年の求愛の言葉を、私は今そのように感じている。
灰色の冬日。ふっと何気なく語られた友人の話に、知り得なかった心の内を見て
中也の詩とともにT君の事を思うのだ。
そして、今月は菱川善夫さんの一周忌でもある。
これはふたりが惹き寄せて、私に与えてくれた時間なのかも知れない。
あゝ!-そのやうな時もありき
寒い寒い 日なりき
合掌
*斎藤沙貴展ー12月16日(火)-23日(日)
テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
tel/fax011-737-5503