風景学という分野がある。風景にも地相が結晶する場所があるという。
<すぐれた地相には急所というものがある。・・そこに立って四方を眺め渡すと
地相の趣意が一気に析出し、風景として結晶する。>
(中村良夫「風景学実践篇」)
地名の保つ文化とは、その<一気に析出し、風景として結晶する>根に存する
。都市の保つ風景は、その<根>部分で対峙するものと思う。
このふたつの矛盾する風景のなかを今、我々は生きている。
都市の傲慢は、時としてこの自然の保つ風景の根・結晶を平気で壊す事ともな
る。自動車道路のもつ直線の暴力。観光産業、レジャー産業の俗悪な建築物の
もつ風景破壊。それが時として、アートという名のアウトドアー的野放図として公
共美術の名の下に陳列される場合もある。
今回の河田雅文展のように、都市化とその足元の自然とを対峙する視座を持た
ず、風景の根を踏みにじる行為を都市の傲慢の延長で為されることも多い。
藤倉翼さんのネオン看板を真正面から見詰める視座、河田さんの自宅庭を起点
とする都市の皮膚下の視座。このふたつの視座に共通するのは、都市の風景に
立ち向かう複眼の意思である。都市の風景と対峙し、その背景に潜む風景の結晶
をそれぞれの立場から直視する視座を、風景の根の矛盾として対峙する事を怠っ
て、安易に自然に凭(もた)れ込む姿勢は糾弾されるべきものと思う。
かってセザンヌが故郷の山を見続けていた視座、その風景への視座を喪失してズ
カズカと風景の根を踏み荒らす。そこに表現の本質的な視座も拠点も生まれる筈
がない。
都市の風景の中で問われるべき矛盾を生きず、ノンシャランな自然へのアウトド
アー的安易な回路を、まず謙虚に省みるべきなのだ。
先日TVドキュメントで、スイスの熊の木彫りの話があった。
今は絶滅種となったスイスの森の熊。その名残が熊の木彫りだという。
あの美しく見えるスイスの緑野も実は森の伐採の果ての第二次自然という事にな
る。その喪われた森の象徴が熊の木彫りなのだ。
アルプスの山と緑の自然を代表するかに見えたアルプス・スイスも実は人間の破
壊の後の風景である。熊の木彫りはそのかっての自然の名残であった。
アートとは何か。自然と人間とは何か。その視線と拠点が、今ほど風景に問われる
時代はないと思う。
*M企画「logs/river/city」-11月4日(火)-16日(日)am11時ーpm7時
月曜定休・休廊
*ALGILLN’NE展「モーラ」-11月18日(火)-30日(日):中嶋幸治・國枝エミ
テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向
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