遠くから電話のくる日だった。3年ぶりの円山北町の友人からの電話。
命賭けるような公演、舞台のお誘い。円山を去ってから、連絡を怠っていたから
友人の友人から連絡があり、繋がったのだ。
どんな舞台になるのか分からないけれど、公演翌日には入院予約という。
なにかすべてを賭けているのだなあと、鈍い私も感じている。
もうひとり、会った事のない東京の人からの電話は、切羽詰った心の悲鳴のよ
うに聞えた。親しい人の心の淵を見詰める写真を撮って、その自分に激しく動揺
するやり場のない心が跳んできたのだ。自分は冷酷なのだろうか、その写真を
撮った自分に怯える心が、僅かな心の縁を頼りに跳んできたのだ。
自分の死を見詰める心、人の死を見詰める心。
生きるとは、優しさとは、そして激しく動揺する自分。
立場は異なってもふたりの立ち位置は、死と向き合い見詰めている事で同じだっ
た。それが自分のことであれ、親しい他者のことであれ、死を見詰め激しく動いて
いた。死に至るものと対峙し、表現する。優しさは時に冷酷である。
見詰める事、傍にいる事、それしかできないと見切る事。
その哀しさが優しさの本質である。
自分の死を見詰める時、死を見切り見詰める。そしてそっと傍に置く。
死に寄り添うように見詰める。自分の、自分自身への、それが優しさなのだ。
他者の死を見詰める時、他者の心に寄り添いながらも、そっと見切ること。
それが最大の他者への優しさなのだ。立ち会う事、遺言執行人のように心の翳
のように、限りなく近く遠い存在が生でもある。
ふたりの電話に対し、応えられた自分はそんな気持ちを述べるしかなかった。
私が死と向き合った時にそうだったから。
時間の距離や地理の距離を超え、何故昨日は心が跳んできたのだろうか。
October run。魂は千里を疾走る。
ひとり舞台に望む人と、写真を通して他者を見詰める人と、自他の差こそあれ表現
者の行為とは、どこか醒めた視線の熱い優しさの故である。
きっと表現された作品だけが、その優しい冷酷を救ってくれるものだ。
*阿部守展「場に立つ」-10月19日(日)まで。am11時ーpm7時。
*中岡りえ展「DNA Diary 1902-2008」-10月23日(木)-29日(水)
テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8北大斜め通り西向
tel/fax011-737-5503