家族という社会的関係性と個の時間をテーマに、個の時間という縦軸と家族とい
う関係の横軸を、家系図を想起させるモビールの形で顕した新明史子展が終る。
村岸さん母子の死の時も含めて、廊内廊外に人の絆を見詰めた会期であった。
人は如何に人と繋がり、個であるのか。そんな思いが浮かんでは、消える。
蝋燭の灯りのように火は灯りを深く抱きしめ、同時に闇をも深く抱きしめている。
灯りは時に白樺でもあり、子供でもあり、他者でもある。
蝋燭の炎にも、白樺にも、息子にもただそれだけに溺れ忘我することなく、そこか
ら闇に、川に、他者に開いていく深い抱擁を思うのだ。
抱くという事は深く閉じ、深く開くことと思う。
新明史子が出産・育児の日々のなかで、仕事も続けつつ、かつこの個展を開いた
状況を、その時間の厳しさのみを殊更にとりあげて評価する気はない。
しかし、そういう状況のなかで保たれていた透明な自己と他者への視線・視座は
評価されなければならない。
現実という言葉は多分に翻訳的である。<浮世>という言葉が浮かぶのだ。
新明史子の今回の仕事は、家族という<浮世>を、光と影の交叉する立体空間
として顕現化したと思える。
現実という言い方はそれ自体が固定的である。その一点に溺れ耽溺する。
死も子供もその一点でブラックホールのように吸引する。
<浮世>はその意味で、現実ではない<現実>という複眼性を保つ。
膝小僧を抱き締めるような<浮世>は、現実とはいえないのだ。
蝋燭の火に吸い寄せられる昆虫のような、閉じた観念は自閉しナルシスの陥穽に
自死するからである。個と家族の透徹した関係をその界において見詰める新明史
子の作家としての視座は、日常と非日常、社会と個の界(さかい)に決してどちら
にも溺れる事無くすくっと立っている。
そこに作家としての真摯な新明史子を私は見ていたのだ。
*新明史子展ー28日(日)午後6時まで。
*梅田マサノリ展「Scenery of cell 細胞の風景」-10月1日(水)-7日(火)
*阿部守展ー10月9日(木)-19日(日)
*中岡りえ展ー10月23日(木)-29日(水)
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