新明史子さんの展示を見ていて、ふっとAさんの記した旅のエッセイを思い出し
ていた。札幌から稚内ー樺太ーヤクーツク、ノヴォシビルスク等を経てヨーロッ
パへ渡った旅のエッセイである。そこにタイガの森をトナカイに乗って歩き、ツン
グースの人たちと出会い輪になって踊る記述がある。
・・・皆で手をつないで輪をつくる。おばあちゃんの掛け声を、皆でまわりながら
繰り返す。おばあちゃんの次におばさん、おばさんの次に若い女性と、掛け
声役の人が変わり、ぐるぐる回る。私は、胸にこみ上げるものがあり、涙が
出そうになる。隣の子どもの手のぬくもりが伝わる。掛け声は、一つの世代
から次の世代へ、さらに次の世代へと受け継がれていく。そのあとを追う、皆
の声が一つになって小さなホールに響き渡る、その中に私はいた。・・・
<胸にこみ上げてきたのは><この輪に入って・・・それは自分だけの選択では
なく、知らない選択も紡ぎだされた糸のようにつながって、これからもつながっ
ていく、・・その圧倒的な時間を感じ、そこに自分がいることを確認できたから>
と、Aさんは記していた。国際線の飛行機で、ポイントを結ぶようにヨーロッパへ
行ったのではなく、樺太を経てシベリヤを経由し、トナカイと車・汽車の旅だった
からこそ、この体験はあったと思う。現地で知り合ったツングースの人たちととも
に輪になって踊った時、そこで感受された連続性・関係性とは、家族に近い人とし
ての時間の連続性・関係性である。
おばあちゃんーおばさんー若い女性ー子供と繋がる手のぬくもりに、Aさんは時
間の連続の内にいる私を確認し、胸をうたれるのだ。
今回の新明史子さんのモビールにも、その事に繋がるものがある。
ここには文句なしにリアルな感触、<手のぬくもり>が身体的な直接性をもって
<糸のように>ある。しかし、私はこの直接性が、主に女性の側の世代の変化に
よって、その時間の連続の多くが語られている事に気付くのだ。
生命の連続性が、女性の世代の連続性として表象されている。
一方男性性とはなんなのか。男性性における連続性とは何か。
圧倒的に女性性という自然の連鎖の連続性に対し、問われるのはその事である。
女性の直接的な身体性に対し、あえて対置すれば如何にメタフィジカルな観念性
において、男性性という個と類の思想性が問われているとも思える。
*新明史子展ー9月16日(火)-28日(日)am11時ーpm7時(月曜休廊)
*梅田正則展ー10月1日(水)-7日(火):帯広在住の造形作家
*阿部守展ー10月9日(木)-19日(日):九州在住の鉄の彫刻作家
*中岡りえ展ー10月23日(木)-29日(水):ニューヨーク在住の美術家
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