宮崎駿の「崖の上のポニョ」を見てきた。散々迷ってやっとこ映画館に入る。
JRタワービルは地下鉄から入ると、迷路のようになっていて、駐車場に出たり、
店舗・レストランが続いて、おのぼりさん状態になる。なんとか間に合ってもう始
まっている館内に滑り込む。今度は席が暗くて分からず、適当に座っていたら、
うろうろするおばさんに、ここは私の席だと指摘された。横にずれて席を譲ると、
バリバリ、ごそごそとなにやら食べだしてうるさい。まあ、もう始まっているしと観
念して映画に集中する。父親不在の少年と海の魚の子ポニョの物語である。
今迄の宮崎駿の背景は、森と川が多かったと思うが、今回は海が主役である。
そして、陸と海というふたつの異質な存在は、少年と魚の子に象徴されている。
現世では分断される存在の融合と協調が、ふたりの幼い愛という形で表わされ
、崖というのはその存在の象徴なのだ。海と陸の間の象徴なのだ。
その断絶する間を、凛々しく勇ましく越えていくのは、少女であり、母である女性
である。男は父親も含め、遠い脇役である。多分男性性とは、区別・差別・分断
の観念性として宮崎駿の世界にはいつも脇の存在であるように思える。
現実の世界を構築している男性性の体制とは、そこに構築的な分類をもたらし、
間(あいだ)を固定化する世界だからである。少年の父が不在である事が、この
映画において前提とされるのは、その為でもある。船の旅に出て、遠く光の信号
でしか交信できない存在である。ポニョの父もまた、海の女王の母の圧倒的な存
在に比べ、気弱な脇役でしかない。宮崎駿は一貫して女性性の時代を描いている
と思える。それも、凛々しい勇敢な女性性を主人公にしている。遠く、ジャンヌダル
クの時代から、最近のナウシカに到るまで時代は「モモ」も経て、少女の勇敢なカ
オスこそが、この時代の膠着を断つ力と信じているかに思える。
海を女性と見る思想は古今東西に昔から存在する。この映画もその文脈に沿って
圧倒的に女性が主役であり、海の水が主役である。過去の作品で森をあれだけ
美しく描いた宮崎駿は、今回海と水の描写にその力を注いだと思う。そして、水の
存在、女性性そのものの保つ不可避な混沌・カオスこそが再び世界を再生する
力、と信じているかにも思える。
*新明史子展ー9月16日(火)-28日(日)
テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8北大斜め通り西向
tel/fax011-737-5503