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テンポラリー通信

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2008年 07月 24日

応えるという事ー夏の年(sak-pa)(46)

<応>と書いて、応(こた)えると読む。心でこたえる意味とある。
”おう”という音の響きに惹かれるものがある。対等に親しい感じがするからだ。
この”おう”を心になくして、人を迎える展覧会を見ると、いやあな気持ちがする。
今陶芸界の異能の人、古田織部賞受賞者鯉江良二が札幌に来ている。
この織部賞の過去の受賞者は、舞踏の巨人大野一雄、生け花の巨人中川幸夫
等である。大変な賞と思う。その鯉江さんを迎える札幌の応(おう)が、私には見
えない。札幌という場のやすやすと、人を迎える薄さ、軽さに腹が立つ。
鯉江良二に対し、私はいつも私のさっぽろを提示して招き、迎えてきた。それは、
’70年代からであり、数々の企画のなかで彼の異才を磨くように、時に対峙し、
突きつけ、その度に鯉江良二は、その要求する主題に応えてくれた。
しかし、今札幌にいる鯉江さんに対し、何も相互の<応>が感じられないのだ。
今日は泥縄式に急にCAI 2で岡部昌生との対談が組まれたようだが、あたかも
旧知の間柄を誇示することだけが、目玉であるようなふたりの紹介文を読みなが
ら、虚しい気持ちになるのを抑えきれなかった。都心に企画ギヤラリーを、という
能書きで札幌市長を始めとして、賑々しくオープンしたこのビル地下2階のスペー
スについては、当初から私は、批判的な立場にある。このブログにも何度かその
事は書いているが、売り物の<企画>の第一回が、「サッポロアート」というふや
けたカタカナ企画である事も批判として記した。市長さんがオープニングでカラオ
ケまがいに歌を唄ったのも、ご愛嬌といえばご愛嬌だが、肝心の企画が有料・無
料への歪小化と、カタカナ信仰の<サッポロアート>では、お里が知れるのである
。そして、ここへきて某外国ビエンナーレ出品の岡部昌生氏と鯉江良二を急遽対
談で組み合わせ、その有名性だけで括った<企画>には、何の必然性も場も感じ
られないのだ。
<サッポロ>化したカタカナのお化けが、グローバルな構造を誇示しているだけで
ある。さっぽろ不在のサッポロがあるだけである。場に対する<応>が命のフロッ
タージュ作家岡部昌生も、その心を何処に置き忘れてきたのか。ヒロシマにか、
自らのさっぽろ、その郊外のベッドタウン化したノースヒロシマすら念頭になく、
コイエ、コイエと擦り寄る姿は、その対談場所にすらなりふり構わず擦り寄ってい
る哀れとしか思えない。同時に開催されている「交差する視点とかたち」という4人
展もまた、個々の作家の力量は別にして、企画という点では何もインパクトを感じ
ない。交差する視点とかたち、・・それって当たり前の事じゃないか。4人も寄って
展覧会をすれば、交差するのは当然だ。どう、なにが交差したか、どう交差するの
か、その肝心な主題が無い。ぼんと放り出して見る者に任せる。だから、肝心な掛
ける<1>の主題が人任せである。この時<かたち>とは実体の無いお化けで形
容詞だけで成り立っている。お化けとは、場に立つ足が無いという事だ。
4人雁首揃えて交差する視点とは、正に宙に浮いた名前だけの<かたち>である
。さっぽろという場の<応>が、ここにも不在なのである。ひとりの作家の有名性だ
けに群がって、グループを組めばそれだけで企画というこの貧困なサッポロに、真
の<応>はない。

*久野志乃展「物語の終わりに、」-7月22日(火)-8月3日(日)am11時ーpm
 7時(月曜定休・休廊)

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8北大斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503

by kakiten | 2008-07-24 13:08 | Comments(0)


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