歯の痛みが繋がるように、今度はオランダのK君からメール。疲れが溜まってい
るのか歯痛という。なにかこの直接性がいい。パソコンという瞬時に伝えてくれる
機械が、歯痛という身体の直接性で共有する。高度な情報手段が、最終的には
体の痛み感覚に収斂されて健全である。
最近もう報道されなくなったが、イージス艦に引き裂かれた父子の行方は、どうな
っているのだろうか、とふっと思った。チベットやミヤンマーの事件、遠い国の出来
事が死者の数の多さ、被害者の多さに目を奪われ、たったふたりの父子の死を、
もう遠いものにしている。
その電子の耳・眼の性能は人の何千倍もあり、その大きさも千倍のイージス艦が
、目の前の一艘の小舟を見落とし、父子の命も引き裂いたあの事件は、等身大
と非等身大の現代の落差を象徴する出来事として、私には忘れられない事件で
ある。同じ仕事をする父と子の海。その仕事場として、ふたりの生業には充分な
大きさの船。人の関係性としてはこれ以上ない位濃い関係性の場・船なのだ。
そこには日常として、人間のある局面の一番基本的な濃い関係性があっただろう
。仕事を通した無言の信頼。外界としての海への防備・闘い。サイクロンの日々も
あったに違いないし、漁業権の権利の闘いもあったに違いない。父と子でひっそり
と日常的にそれは闘われてあったと思うのだ。普段きっと何処にでもあるように、
それらの日々があったに違いない。その日常に、国家という非等身大の大きさに
機械的に増幅された戦艦が踏み入ってくる。チベットもミヤンマーも、その悲劇の
構造は、この等身大の日常と、非等身大の非日常の猛威において同じ構造をもっ
ている。自然の猛威と国家の猛威と原因の違いはあっても、個の日常という位相
との対立構造は同様なのだ。
冒頭の歯の痛みの共有と同じほどに、私たちはその個の痛みを共有でき得るか。
父と子の日常の海に消えたふたりの死の行方は、そのまま私たちの時代の海の
行方不明の痛みのようにあるかに思える。
*小林麻美展「風景がわたしをみている気がする。」-5月9日(金)-15日(木)
am11時ーpm7時
*岡和田直人展ー5月21日(月)-30日(金)
テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8北大斜め通り西向
tel/fax011-737-5503