片付けていると、以前自宅引越しの際の古いファイルが出てきた。明治32年の
祖父の覚書綴りだ。<北海道石狩國札幌南壱條西四丁目>と毛筆で記されて
いる。これが大正時代の葉書では、宛先が<札幌区南二西四>になっている。
昭和五年の広告では、今と変わらず札幌市南二条西四丁目の表記だ。中央区
は無論ない。ただ括弧して(停車場通り)とある。電話番号も一・二六七番とシン
プルだ。停車場通りという呼び方に、昭和の初期の音感が、汽笛の音や<ゆや
~ん、ゆよよ~ん>と中原中也のサーカスの音色が聞えてくるようだ。昭和の後
半父母の時代は駅前通りが主たる呼び方で、私の時代は四番街が普通になる。
祖父の時代には、停車場通りと本府地区があのあたりの界隈の呼び方である。
道庁を中心として、西は19丁目までが本府である。その向こうは円山村であった
。南は中島公園、東は創成川、北は停車場あたりまでが本府であろうか。この中
央直轄の区域の周りは、村である。従って本府の商店街は基本的に御用商店街
であり、それだけ役人とその家族も多かったのだろう。古い街路図を見ると、道庁
の周りは<官>と記された家が囲んでいる。大通りは公園ではなく、防火線となっ
ている。薄野や商店街、民家からの火事を防ぐ為のものである。事実大きな火事
が多かったようだ。祖父が札幌へ来た年も、札幌は大火の後だったと聞いた事が
ある。一緒に来たもう一人の連れは、小樽から峠を越えてその大火を見て、もう止
めたと引返したと聞く。祖父は決心してその焼け跡の札幌に入った。<燃える街角
・器の浪漫>。私の脳裏にはその祖父の姿があって、見えない焔に包まれた焼け
跡のさっぽろが、今もイメージにはあるのだった。石狩國という呼び名を、図らずも
古い資料に発見して身体としての石狩國を今、ランドとして想う。
片付けは、こうしてゆっくりと祖父と私の遠い間(あいだ)を交感しながら進んでいく。
*「大野一雄と吉増剛造ー境・界としての石狩」展ー30日まで。
*及川恒平ソロコンサート「Re Song」-4月5日(土)午後6時~
入場料3000円・予約2500円
テンポラリースペース札幌市北北16条西5丁目1-8北大斜め通り西向
tel/fax011-737-5503