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テンポラリー通信

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2008年 03月 23日

大木裕之の「オカクレ」-ランドとしての石狩(1)

ヴィデオとDVDが見れるようになり、合間に何本か見る。やはり、ヴィデオが多い
。前のスペース閉店時のSTVとHBCのニュース番組録画。古館賢治、有本紀さ
んのラストコンサート。高臣大介さんのラスト展覧会。それぞれが閉店を惜しむ取
材で、多くの人たちが語り集まる会場風景が流れていた。ニュース番組なので、5
分にも満たない映像だが取材は半日だった。夕暮れの青い空気と人の熱気が、あ
の建物の存在感を高めていた。傑作は、その2年前に撮影された大木裕之さんの
映像作品「オカクレ」(30分)である。9月に父上を亡くされ、その追悼が基層低音
にあるこの作品は、旧テンポラリースペースとその建物、西28丁目界隈を主たる
背景に構成されている。よく行った居酒屋や花器店のカウンター。そこに集まる人
たち、そしてライブ。もう4年強前の11月の一週間の日々である。大木さんの手持
ちのカメラワークは、時に彩に満ちて、晩秋の澄んだ空気を故人へのさり気ない想
いとともに、祈りにも似たパーンで彼の周りの日常を映しだしていた。一昨年秋に
亡くなった石田善彦さんも、ギターを抱え映っている。作品は後半、石狩へとその
視線を移し、岸辺と河口付近の映像となる。お父上の戒名がノートに書かれている
シーンがある。大木さんのそれまでの人生で、大きな存在であったろう<父>が、
きっと初めて解放されたシーンと思う。
私も含めたさっぽろのあるゾーン、界隈が母胎となってこの極めて個人的な映像
が生まれた。個の日常の深まりの内に、ひとつの界隈、ひとつの時間が見えてい
る。追悼という祈りを縦軸に、札幌ー石狩間の大木さんの日常が横軸に交叉し、
そこにある時間と空間が投網のように開かれ、抱きしめられている。そのもう過ぎ
去っていった透明な時間が今作品として、時間として留められ、かつ開いてるの
だ。過去というただただ過ぎ去る時を、現在というどんどん過去へと繰り込まれる
時間のなかで、このふたつの軸心を繋ぐ間(あいだ)、その界(さかい)が保たれて
いる事を私たちは作品を通して実感できる。それは、懐旧という過去に属するもの
ではない。現在に属しながら、繋ぐものだ。身体の咀嚼のように、噛み締める現在
である。この咀嚼の現在が、今を支える。胃も腸も、口と同様咀嚼する。その時間
はしかし口中より、ゆっくりと長い。過去という滋味は、その時にやってくる。間(あ
いだ)の時。界(さかい)の時間。その時間の保水力を、分断・区別・差別の境に痩
せさせ、ブラックホールの吸気構造に日常を植民地化する。それとは決定的に対
峙するものだ。過去を草刈場にし、現在を新旧の薄い刹那に貶め、悪無限の”>”
構造に陥って歯止めの効かない今という歯車は、文化・芸術とは対極にある時間
でもあるのだ。私たちは時間という過去を、食物のように咀嚼して生きている。その
時間をインスタント化し、速度を速め枯渇させる構造と対峙しない芸術などない。
<あいだ>、<さかい>の保水力こそ文化・芸術の泉であり、命の源泉なのだ。

*「大野一雄と吉増剛造ー境・界(さかい)としての石狩」展ー3月18日(火)-30
 日(日)まで。am11時ーpm7時(月曜休廊)
*及川恒平ソロコンサート「ReーSong」-4月5日(土)午後6時~入場料3000
 円 予約2500円

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8北大斜め通り西向
 tel/fax011-737-5503

by kakiten | 2008-03-23 13:03 | Comments(0)


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