イプツーイパルその入口と記していたら、ある人が<出口>はなんていうの?
と聞いた。そうか、なぜ入り口といって出口と言わないのか。そう云えば不思議
。私なりの解釈では、開かれた新たな世界が見える時人はそこに入る感覚に
なるように思う。扉を開けて入るのである。出るのではない。出る感覚にはある
否定が伴なう。内向きには否定が前提とならないと、出ると言う言葉は生きない。
江別も夕張もある開かれた地点がある。大河石狩川に開き、石狩平野に開く。
しかし背後の世界の否定はない。もうひとつの新たな世界を望んで開き入って
行く。出口には近代の新旧のような序列、内的な自己否定の翳があるかもしれ
ない。例えば辛い状況の中で探すのは、そこからの出口であるだろう。しかし
例えば知らない街を歩いていて、ふっと目に止まった魅力的な路、建物に惹か
れた時人はそこに入っていくだろう。入る事である転換が経験される。風景には
そんな結晶する地点がある。いい街にもそれがある。そこまでのプロセスは山の
裾野、中腹のように穏やかに存在し暗い否定の翳はない。古代の人は風景の
そんな地点を<その入口>と呼んだのではないだろうか。私が今漂うように街
を歩き求めているのは、そんな街角ーその入口でもあるのだ。風景が消え出口
入口のみが支配する世界は巨大な室内化を地下に地上に出現させ、街全体が
ある閉塞感の中にある。だから人は時に郊外という名の風景を求めて、街を出る。
出口を求める。街には<その入口>と呼ぶ場所は深夜のコンビニエンスストア、
24時間営業のネットカフエの個室位しか今原風景としてないのかも知れない。