キャンドルの炎を見ていると見飽きないものがある。空気に触れて燃えている。
芯や蝋燭の胴はその触れる先端を支えている。樹の幹と梢のようだ。梢の葉先
も光に触れている。どんな大樹でも梢はお喋りで活発だ。幹は寡黙である。その
梢と枝に鳥が休み、時に実を啄ばむ。以前の店の建物の屋根に修理で上った時
白樺の大木の梢の位置に初めて立った事がある。普段見慣れた幹の目線でなく
梢の位置にいた。可愛い葉がたくさんあって風にそよぎ多勢でお喋りをしているよ
うだった。先端の触れる葉先は活き活きとして光に触れていた。炎の先端もまた
同じである。酸素に触れ空気中を燃えている。小さな草花にしてもその等身大の
高さに近づけば同じである。山に登り道なき道の急斜面を這うように登っていた時
自然と目線は低く草花と同じ位置にあった。花も実も咲かない多くの時間にも命
の炎は燃えている。花の咲く15日と花の咲かない350日を区別差別するのは人
間の思い上がりである。花が咲きその蜜だけを求める蝶々のような人間も多い。
見えない地中で根を伸ばし土壌を作る寡黙な茎や幹の時間を軽視する。時には
その時間を潰しにもかかる。蜜が無い、花が無いと結果を性急に要求するからだ
。先端の触れる時間の真摯さも見ようともしない。蜜や花だけに群がる蝶々のよう
なふわふわした価値観は飽食すればまたさらなる花と蜜を求めて密通する。蝶々
を比喩に出す事は実際の蝶々に失敬な事かも知れない。実際の蝶々は花粉を媒
介し草花に報いている。人間の蝶々は花や蜜に群れるが媒介はしない。飽食し食
い荒らすだけだ。場に根を張る植物は動き回らずそこで天と地に立つ。動物とて本
来はその活動範囲という土壌をもつ。観念的動物である人間は精神の土壌をもた
なければならない。<クニ>や<ミヤコ>とは本来その事を意味するはずではない
か。政治・経済の線引きした国家や中央という都会とは別次元にである。
昨日年明け最初の個展をする小樽在住の森万喜子さんが来る。太陽のような女性
である。作品も陽光の粒々がそのまま絵画となったような光に満ちている。少々凹
んでいた気分が明るくなる。人間もまた作品の基にある。会って話せば作品と同様
のオーラがある。技術の巧拙の前に基がある。優れた女性は太陽系なのかも知れ
ない。自らが発するエネルギーの風があるのだ。暗黒の真空の宇宙を太陽風が走
るという。オーロラを生む。オーロラは暁の女神とも言う。暁はストライクオブデイー
。一日の始まりを撃つのだ。優れた女性、優れた人間に会うことは勇気をもらう事だ
。strike of day-にありがとう。
*福井優子キャンドル展「Cold Fire」-23日(日)まで。:午後7時~酒井博史ギ
ター・唄ライブ入場料1000円
*木村環×藤谷康晴「乱」-12月25日(火)-30日(日):30日午後5時~藤谷
康晴ライブドローイング
*森万喜子展ー1月9日(水)-20日(日)
*高臣大介冬のガラス展「雪と花光とgla_gla」-1月22日(火)-2月3日(日)
テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8北大斜め通り西向
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