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テンポラリー通信

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2007年 09月 07日

台風と石田尚志ー秋の序奏(6)

台風が近付いている。TVのニユース画面には荒れた海の波浪、川の増水、強
風の模様が映し出されている。秩序が分断される。馴致されたものが叛乱し溢れ
る。マンホールの蓋が鋲のように浮き上がる。留められ押さえ込まれていたはず
のものが沁みだしはみだしてくる。ワイルドサイドである。荒野ではなく、ワイルド
なのだ。そしてその有り様を方形の画面で見ている今の自分が居る。画面の中
では方形の秩序が混乱している。馴致された直線の構造が乱れ壊れている。解
き放されたように波浪や風が荒れ狂っている。石田尚志が映像で抽象として描い
た世界がここではもう日常になっている。傘を逆さに飛ばされそうになっている街
の人の様子が映っている。何故か笑顔の楽しそうにさえ見える女性がいる。ワイ
ルドサイド。男は会社がとか台風には敵わねえといった真面目な表情が多いの
だが女性は概してもっと活き活きとして見える。ワイルドサイド。台風は女性の世
界でもあるのだ。現実の渦中にあればそんな講釈は吹っ飛んでライフラインの只
中で必死に右往左往しなければならない。ただ映像の中での出来事にはそんな
見方ができるのだ。地球という水と空気の惑星がその本質を剥き出しにした時水
の氾濫空気の氾濫が人間の整理整合というご都合主義をあたかもあざ笑うかの
ようにいとも簡単にぶち壊してしまう。秩序と氾濫。このふたつの相反する本質の
内に我々は生きている。自然と社会とも括れるがそんな枠を越えてもっと内面的
な相反する何かである。石田尚志の「海の映画」は溢れ、そして収斂する人間の
女性性、男性性を海とハコを基本構造に見据えて映像化している。ワイルドサイ
ドだけでも生きてはいけないし秩序のハコだけでも生きてはいけない人間の両義
性を海の実写と美しいドローイングの線で描き尽くしているのだ。都市という利便
のハコと人間の内なる自然とのせめぎあいが彼の初期からの作品の基調低音と
してある。水と風の視線、その荒ぶる眼線が映像の根にあって現実のハコとして
の日常を揺さぶるのだ。そのハコが時にバッハの古典的なフーガという確立した
優雅なハコでもあり時に日常そのものを表象する壁のようなハコでもある。その
制約、閉じるものに対して狂おしいほどに内なる彼の台風が吹き荒れタッチして
いく。モノクロームの波浪は濃い藍色の滲み溢れるものに変幻し画面全体を覆っ
ていく。氾濫するもの、そして収斂するもの。その増幅と収縮。地球の呼気、吸気
。人間の呼気、吸気。そのプリミテイブな命の不条理を純粋な画像として定着さ
せようとする。石田尚志の世界は不思議にも台風の近付く日常と交錯するように
あるのだった。

*石田尚志展ー9日(日)まで。:新作「海の映画」を中心に。旧作「フーガの技法」
 「部屋/形態」「絵馬・絵巻」等も上映。
*阿部守展ー11日(火)-23日(日)
*中嶋幸治展「Dam of wind、for the retun」-25日(火)-30日(日)

 テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り入り口
 tel/fax011-737-5503

by kakiten | 2007-09-07 12:42 | Comments(0)


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