佐々木恒雄の個展会場にはいつも会話が流れている。車の中、部屋での会話、
歩きながらのやりとり、街の音と共に録音された日常が屈託のない話し声として
会場空間に音の縁取りをしている。作品数は200余点。ここ何ヶ月かの友人との
会話がその中をとりとめもなく流れていく。交差点の信号音や宣伝の声、救急車
のサイレンの響き。そんな街の音をバックにして会話が続いていく。どこかで誰も
が何気なく喋っている本当にどこでもあるような話題。なにかふっと自分もその会
話のなかにいたような気さえする。都会の一人暮らし。気ままな友人との会話。こ
こにはきっと網走から出て来た23歳の青年の屈託のない自由な時間が息づい
ている。都会で仕事をしている時の時間ではない。ひとりの気ままな会話の時。そ
の音の縁取りのなかを描き溜めた作品群がゆったりとたむろしている。展示という
ある種の非日常性を彼は可能な限り排し作品展示の空間に自らの日常を再生し
ようとしている。今回の展示の隠されたもうひとつのテーマはこの日常性の回復、
再生にある。普段何気なく過ぎ去っていく時間。しかしその掛替えのない日常。自
分がいちばん自分らしく他者と触れている時間。そしてそこから生まれた遠い過
去、湧いて消え去る現在の時。それらを留める絵画という結晶の光。泉のように
過去から沁み出す時空。交叉する現在。まるごと今である事。作品だけに収斂さ
れず空気ごと今の自分を綿菓子のように差し出すこと。多少気張って言えば空間
ごと作品を見せる環境を創っているのだ。既成の非日常を前提とした空間処理を
嫌い自らの何の変哲もない日常空間を導入すること。それは一歩間違えば日常
に堕し、ベタベタの空間ともなる危険性をもつのだが決してそうはならないきりっと
した精神性がこの展示にはある。ではきりっとした精神性とは何か。それは日常そ
のものに甘えず、非日常そのものにも依存しない誠実で逞しい生活、生き方から
発しているものだ。それは見に来る人たちの質にも顕著で暖かく誠実なのである。
普段の仕事の無理のない延長で作品に接しその描かれた非日常にタッチしている
からだ。何時の頃からだろうか、美術は見る人間の日常性を否定するように特権
的に存在しようとしてきたのである。佐々木恒雄の展示世界にはその特権的時間
との対峙、否定が実はさり気なく演出されてあるのだ。場から作っていく事。彼も
また現代の耕作者のひとりである。私はその姿勢にコンテンポラリーな作家の同
時代な誠実さを見て共感を覚えるのだ。
*佐々木恒雄展「crickers」-26日(日)まで。am11時ーpm7時
*石田尚志展ー28日(火)ー9月9日(日)
*阿部守展ー9月11日(火)-23日(日)
*中嶋幸治展「Dam of wind、for the return」-9月25日(火)-30日(日)
*毛利史長・河合利昭展「産土不一致 sand which」-10月2日(火)-12日
(日)
*石田善彦追悼展ー10月23日(火)-28日(日)
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