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テンポラリー通信

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2007年 05月 31日

内なる越境者の視線ー樫見菜々子展(2)

歌人であり短歌評論家である田中綾さんに寺山修司論「where?-wild side
への帰還の問題」という優れた小論文がある。この文を読んだ時なにか眼から鱗
が落ちた感じを受けた。人間として半分以上を占める女性の目線をストンと理解さ
せてくれた気がしたのだ。象徴的に取り上げられているのはネルソン・オルグレン
というアメリカの作家の小説のタイトルである。『A walk on the wildside』は
「荒野を歩め」と普通は訳されている。しかしそれはそのまま「wildの側」を歩くと
とらえた方がいいと田中さんは書いている。そのwildの側とは<すなわち法秩序
の概念とは反対の立場に身を置くことである。>そして<・・それは、父権的な概
念とは逆の方向に視線を向けること>であり<二元的にとらえるならば女性性と
言い換えることもできるだろう。女性性は社会性と対抗する概念なので、どんな
社会にも帰属しえない、要するにwild sideの性質をもつ。>この文の指摘が当
り前のようで優れて感じられるのは<荒野>といういわば男の浪漫的な訳が<
wild>はワイルドよ、という断言にこそある。そしてそこから社会性や秩序という男
性原理の支配する体制に対して女性原理の混沌、無秩序の世界を虚構と実存の
対比において摘出した事である。父権的世界である秩序に対しwild sideである
「母」的な世界が現出してくる。樫見菜々子さんの窓口を見詰める白と黒の鳥を
見ているとその視線の外の世界に何故か田中綾さんの指摘したwild sideへの
目線を感じていたのだ。自立し、家を出るそんな人間として当り前の視線を時とし
て男性原理の側からの解釈で”青年は荒野を目指す”的な観念性で見てしまう
愚を感じたのだ。樫見さんの鳥に具現化される越境者の目線は明らかに<wild
 side>を見据える眼なのだ。<わが内に越境者一人育てつつ鍋洗いおり冬田
に向きて>(寺山修司)。この内なる越境者の存在が今回の樫見さんの個展の
視線でありその視線の形象化が建物まるごとの表現体となって為されているの
だ。しかしその視線の先を観念のロマンで早飲み込みしてはならない。その先を
簡単に措提してもいけない。重要なのはwild sideを臨む現在への批判、否定
の意識の深化にこそある。こうして見事に形象化された作品空間と向き合ってい
ると私たちの日常は自らの内なる<wild side>にそれぞれが向き合う事を余儀
なくされる。そしてそれは、それぞれの日常で繰り返されている同時代の生きる現
場への視線に連なると思われる。

*樫見菜々子展「微風」-6月3日(日)まで。am11時ーpm7時
*有本ゆかり展「ヤシンカの森ーインドからの風」-6月5日(火)-10日(日)
*gla_gla2人展ー6月19日(火)-29日(日)
 於テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8北大斜め通り
 tel/fax011-737-5503

by kakiten | 2007-05-31 12:00 | Comments(0)


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