漁師が海の為に山に行き木を植える。海という生活の場を捨てた訳ではない。む
しろその生活の場の為にこそ越境する。新規な場に移転する事ではない。同じ場
所の質を内側から革命していく。その為の越境なのだ。身体が日々新陳代謝をし
、呼吸をしているのと同じ原理である。病気になり故障したからといって身体をモノ
のように新しい物と交換するという事は命という唯一性からは本来は有り得ない。
命には交換が効かない。だから同じあらたまるでも<新(あら)た>ではなく革(あ
ら)たまる>命なのだ。与件としての<場>を新規の場ではなく<革まる場>とし
て内側から変えていく行為は極めて創造的な行為である。与件としての場をそれ
は越境していく。そして界(さかい)を知る。海の漁師さんの行為がそれである。漁
師が山に行く。それは与件としての海を革める行為である。その為にこそ越境して
いく。もし現代美術とは何かと問われればこの越境行為の同時代性こそがひとつ
の答えとなるだろう。近代に於けるある領域の固定の枠をその領域の為にラデイ
カル(基底的)に越えていく事、それが現代の状況において必要とされているから
だ。境(さかい)を越え界(さかい)を知る。作品と場との関係性においてもその事が
如実に出てくる。作品が場を革めるのだ。空間の質が変るのだ。その事にすでに
敏感な作家は会場の展示に全力を注ぐ。既成の与件としてある空間におっとりと
作品を飾って満足したりはしない。おっとりと飾って豪華なオープニングパーテイ
ーなどしてサロンみたいな立派な空間は与件の整備に主眼がある。アトリエ→画
廊→美術館という定番の出世コースがその基底にはある。そこには社会的上昇
気流に乗る現世的欲望は仄見えても革命はない。境を越えるぎりぎりの命の選択
がない。世界は固定して平和である。しかし世界は狭く閉じられている。本当の意
味で世の界(さかい)を知らないからだ。第一次産業の海の人でさえもうそんな狭
い世界にはいない。同時代の世の界(さかい)を知っている。樫見菜々子さんがほ
んの些細な部分にさえ個人的な訳を認め多くの時間をかけ空間を仕上げていくこ
の何日間は場の境をぎりぎりまで突き詰めていく界を知る行為なのだ。その時こ
の場は彼女の命革(あらた)まる美しい作品の身体となるに違いないと私は思う。
爬虫類の末裔のような猛禽類の爪、その足がニャリと笑って飛んでいく。
”何!らぶりい?”
*樫見菜々子展「微風」ー5月29日(火)-6月3日(日)am11時ーpm7時
*有本ゆかり展「ヤシンカの森ーインドからの風」-6月5日(火)ー10日(日)
*gla_gla2人展ー6月19日(火)-29日(金)
於テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8北大斜め通り
tel/fax011-737-5503