目まぐるしい1日だった。何もかも焼き尽くす炎の原因は朝のお灯明だったらしい
。先祖を手向ける合掌の癒しの灯。灯りの奥にある火の力。暴力。水と同じように
凪ぎばかりが水面ではない。津波もある。風も同じだ。そよ風だけが風ではない。
暴風もある。木村環さんの絵が人の心の悪意のメルヘンからほとけのメルヘンへ
と変ってきたように、福井優子さんのキヤンドルの灯りがライトセラピーにもなれ
ば祈りの灯明が火災の原因となる事もある。その両側面が自然という神に近い
存在なのだろうか。良し悪しではないのだ。その両側面を含めて存在しているの
だ。人間もまた。閉じる事もあれば開く事もある。工藤家の不幸は不幸として今
そのようにしか自分自身も含めて彼に懸ける言葉はない。学生時代にロープシン
の「蒼ざめた馬」を訳し東京の出版社からデビューしてロシア文学者として順調に
歩んできた人生最大の生活上の試練に今面しているのだ。ひるがえって今自分
に何ができるか。その事をずーっと昨日から考える。
朝早目に家を出てテンポラリーに着く。開廊してすぐにIさんが来る。ゆで卵や煮付
けの差し入れを頂く。ツブの煮付けが美味しい。2点木村さんの作品を予約してく
れる。それから程なく葉脈コンビのトモヨモンさんとかひさんが来る。沖縄旅行の
おみやげとパンを頂く。ふたりは詩と写真のコラボレーシヨンを及川恒平さんのホ
ームページに葉脈手帖として連載している素敵なコンビである。今日もその取材の
日のようだ。ゆっくり作品を見てふたりが帰った後岡田綾子さんが来る。今年教育
大を卒業して現在モエレ沼公園に勤務したばかりの彼女としばしモエレ沼と古石
狩川の関係について資料を交えて話す。イサムノグチの設計で現在知られるモエ
レ沼と本来の石狩川の河跡としての成り立ちをきちっと交差して見て欲しかったの
だ。場と作品の両方の理解がなければそこで働く本当の意味は浮上してこない。
ある意味でモエレ沼のゾーンは地形的にもさっぽろを俯瞰できる位置にあるのだ。
中心部の市街地は沈み西の山並みが一望できる場所である。海へ向かって低い
地形にあるからその分反対の山々が遠く迫ってくる。中間の高さは沈むのである。
都心では喪われた景観が復活してくる。それとモエレ沼の江別からの川筋を結べ
ばさっぽろのほぼ全域に近くを展望しながら仕事ができるのである。そんな職場は
そうあるものではない。その認識がそこの場所での仕事の質を決めていく。資料を
色々見せて話は弾んだ。彼女は興奮して歩くぞ~と声を出していた。