50個近い灯りが灯る。吹き抜け2階の西側に座る酒井博史の声が響いた。同じ
吹き抜け南側に座る人、階下に座る人。思い思いの場所に聴衆がいた。声ととも
に灯りが揺れる。静かな曲から始まり最後のアンコール曲「ファイト」まで。後半
酒井さんは下に降りて唄い、聴衆も2階に残る人、下りて聞く人、上にいく人と動
く。2時間近くたって終了。涙で顔を隠す女性がふたりいた。第一声から引寄せ
られ最後近くの「僕の骨」という曲あたりから涙が止まらなかったと言う。灯りの
インスタレーシヨン。声の造形。声とともに灯りが揺れ唄の言葉が胸に深く溜まる。
そして聞く人は涙とともに心が溢れたのだ。やっぱり最高のライブでしたね、酒井
さん。実生活で女性を泣かしたという話は聞きませんが唄では泣かしてしまって。
天は二物を与えずって事でしょうか。冗談はさて置き声と灯りの交響は空間を一
体化し溢れる函となって存在したのだった。見えない音が灯りとなって揺らぎ目
と耳が相互に交感し会って揺れている。声の灯りが灯る。灯りの声が響きになる。
声と灯りが木霊する。そんな稀有な時間だった。そう思う。福井優子さんの「春を
灯す」特別篇はキヤンドルアートの新たな可能性を予兆させてその3日間を終え
た。灯りのインスタレーシヨンとしての可能性は空間の新たな分野の造形の可能
性を可能にするものだ。今回、声という目に見ないものが音波という造形を秘めて
顕われ空間をより立体的に彫刻したのだ。灯りを媒体にして。暗闇を照らすだけで
はない。灯りが保つ空気の揺らぎは無音の気配も含めてある有機的な濃い世界
を現出する装置でもある。灯りのインスタレーシヨンはきっと古代から続く人間と闇
との交感装置として歴史的にも深く長いものなのだと思う。神道のお葬式を経験し
た時もそう思った。灯りと無音がそのクライマックスにあるのである。闇を消し明る
い蛍光灯と水銀ランプのコンビニの風景。揺らがない固定した平均化した光の世
界。その明瞭なネガのない世界に埋没している狂気、凶器。その文明病ともいえ
る透明な時代の嘘を灯りは優しく解き放ってくれるように思える。灯りの揺らぎには
それがある。