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テンポラリー通信

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2007年 03月 31日

ハンブルグの春(続き)-春のにおい(41)

今朝堀田真作さんから留守録が入っていた。2点さるところに収蔵品として入る
事になったという内容だった。以前テンポラリースペースで発表した作品という。
展覧会が好評で作品も売れたという事は素晴らしい事だ。一度しかお会いして
いないSさんのキューレート能力に脱帽する。人は会った回数ではないのだ。
同じ昨日のもうひとつの出来事は嫌な事だった。昨年1月の強制執行前後の前
のスペースのピーンと張り詰めた冬の空気感のなかで引越しの作業をしている
写真の記録。そして現在の場所で廃屋に近い建物をみんなで改装している写真
の記録。それを身近な距離からモノクロームでしっかりとドキュメントした写真が
ある人の恣意で処分するとメールがきたのだ。特に現在の場所の土壁と石膏ボ
ードの狭間に死んでいた福鼠(白い大きな鼠。大黒鼠とも云う)とその鼠の残した
大量の丸薬のような糞の写真。そして鴨居に貼ってあったお守りの札。それら築
50年近いこの建物のもつプロセスを物語る記録はもうどこにもその面影が喪わ
れているだけに貴重なドキュメントだった。ひとつのスペースの喪失と新たな場の
再生。そこに結集した友人たちの志をともにする汗の記録である。その写真は記
録性が強いゆえ作家としての作品展には向かないと判断したのだろうが私には
貴重な記録として手元に置いておきたかった物である。またここでの作業中も身
近な人として信頼していたからこそ普通撮れない場面も撮影が可能だったのだ。
そういう身近にいて何度も会っている人が突如としてその記録を個人の恣意で処
分すると通告するのである。私の不徳もあるのだろうが記録やドキュメントはそん
なに芸術性の低いものなのであろうか。遠いドイツの友人は一度の面識だがこの
ブログを通して深く理解しあう事ができる。同じさっぽろにいても写真ひとつとって
も理解が遠く離れる。人が生きて結晶するような大事な場面というものは間違い
なく存在する。それは芸術とか云うもの以前のかけがいの無い事実である。そこ
に鈍感で成立する芸術至上主義という陥穽とは何なのか。以前大野一雄の石狩
河口公演の時にもさる映像作家に撮影をお願いしたらボクはドキュメントは撮りま
せんと直前に拒否された事がある。それ以来その映像作家を私は信用していない
。奇跡のような86歳の野外舞踏という稀有な事実を前に芸術だ記録だと前提の
構えに拘っている小さな根性を先ず卑しむのだ。大野先生程ではないにしても掛
替えのない人生上の記録の写真であると私の場合にしてもそう思っている。撮影
者の所有物といえばそれまでだが被写体の保つ事実への軽視は残念というしか
ない。ハンブルグの春とさっぽろの春。この温度差は少し悲しい。

*福井優子作品展「春を灯すキヤンドル」-4月1日(日)まで。
 最終日午後5時~佐藤歌織ピアノソロライブ。
 於テンポラリースペース札幌市北区北16条西5丁目1-8
 北大斜め通りtel/fax011-737-5503

by kakiten | 2007-03-31 12:33 | Comments(0)


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