雪となる。吹雪いている。霰が屋根に当たる。そしてふっと晴れ間。陽射しが会場
を白く輝かす。”ほルカ”というアイヌ語を思い出していた。後戻りする(川)の意。
幌加などと当て字をしている。今日は季節のほルカ。斎藤周さんの作品がその中
で嬉々としている。白い光が路面から反射して作品が柔らかに浮き上がる。これ
はもう初日への自然からの贈り物だ。白い雪の光の反射。その中をフキノトウの緑
、若い女性の日常が柔らかな輪郭で蜃気楼のように浮いて飛んでいる。先週まで
のモノクロームな都市の蜃気楼と対照的な命がある。藤谷さんの排水口に描かれ
た雑草のような生命力とは違ってほんのりと暖かな春の息吹のような命なのだ。
年齢で人を当て嵌めたくはないけれど25歳とその一回り以上は違うふたりのこの
相違はなんなのだろうか。作家の目線のこの違いは何処からくるのか。会場の使
い方にそんなに違いがある訳ではない。作品の保つ世界への関りの違いが年齢
を超えてあるのだ。単純に考えれば藤谷さんの25歳の年齢に近い世界が斎藤さ
んの描く世界なのだ。その薄い線描で描かれた青春群像のような若い人たちは
むしろ藤谷さんの同世代の若い人たちと見える。斎藤周さんの暖かく柔らかなこ
の世界は可能な限り藤谷さんの描いた都市の構造とライブドローイングで見せた
肉体vsCONCRETE FICTIONの世界を遠ざけて成立している。さっぽろを取り
巻く近現代の外の自然に近い位相から春の蜃気楼のようにケイタイを片手に若さ
が揺れているのだ。「3月の次へ」。斎藤周さんが意識した<次へ>はこの後柔ら
かい日常の背後に構造として何時その翳を顕してくるだろうか。美術家の花田和
治さんが今日最初の訪問者として来る。「なにか足りないなあ、いいんだけどなあ
」と感想を洩らす。斎藤さんと花田さんはある面でその感性の柔らかさの表現とし
て共通のものがある。風景の触れる深度。勤務先も大学と高校の違いはあっても
学園である。斎藤さんの方が学園広場に近い。花田さんの作品にそれを感じる事
はない。花田さんの作品には水平線の保つ柔らかい広がりがあって斎藤さんの作
品には学園と野の花の柔らな広がりがある。ともに都市は稀薄である。花田さん
は地形に触れている。海岸線がある。斎藤さんには地形は見当たらず春の若々し
い輪郭がある。「次へ」。斎藤さんが次を意図したときそこに都市の地形か自然の
地形かどちらかが骨格として意識されるだろう。それが作品の骨格をも造る。触れ
る深度の深さは必ずやその事まで及ぶのだ。そう思う。