人気ブログランキング |

テンポラリー通信

kakiten.exblog.jp
ブログトップ
2006年 01月 21日

静かに友たちが集まるーさらばと総括(2)

静かにだが濃く、熱く真っ直ぐ見詰めるように、友たちが集まってくるのを
感じている。気配である。これから、ここでの<さらば!>を受けていく。
こう書いている内に、いけばなの渡辺万紀子さんくる。「いけばな全集」と
「いけばな批評」全巻預かって頂く。しばらく引越し先に寝ているよりお預け
して読んでいただいた方がいい。「桑原専慶の立花」もお貸しする。これは
古い立花の絵図をもとに再現した本で、出版当時梅棹忠夫が<いけばなは
再生芸術である>と書評した名著である。あたかも近松門左衛門の脚本
やシェクスピアのシナリオ、バッハの楽譜のようにそれをもとに現在表現する
再生する芸術だと評したのである。時間とともに失われてしまう瞬間芸術を
彫刻や絵画とちがって、時間の内に再生する質のものとして捉えた画期的な
いけばな論であった。渡辺さんも感激していた。本とは読まれる人がいてこそ
生きる。いい機会。こういう事があつてこそプラスに働く。

穂積利明さんの「季評美術」が美術の公的あるいは民間の低調傾向を論じた
なかでここの閉鎖とプラハの閉鎖が同様に「<現代の美術に希望や自信を
もてない>という同じ心理が横たわっているような気がして仕方がない。」と
結論づけるように書いているが、そんな事はない。限られた美術状況一般に
おいてはあるいはそうかも知れないが、今はオーバーフエンスの時代である。
その過程で、従来のパターンが崩れているのだ。例えの言い方をすれば
海で魚をとる漁師が、最近の海は荒廃して魚が獲れなくなったと嘆くことに似てい
る。しかし現代の漁師さんは何をするかと言えば、海の為に山へ木を植えに行く
のである。それがコンテンポラリーというものである。近代では、海は海、山は山
というのが当り前だが、現代はその領域をオーバーフエンスしていく。必然として。
グローバリゼーシヨンとは違う。自分の領域の為である。美術でも同じことだ。
伏流水のように近代の枠組みからはみ出し動いている。古典的近代の枠を超えて
蠢いている。生き生きと深いビットウイーンに今在る。ここの閉鎖もプラハのそれも
<希望や自信がもてない>と言う範疇には無いのである。<公>や<道>のつく
立場に還元する気は毛頭ないが少なくとも近代美術館の<近代>には木を植え
に山へ行く漁師さんの視線が無い事は確かではないでしょうか、穂積さん!
私は<さらばと総括>しつつ、ここに集う様々なジヤンルの人間を友と想い、そう
実感しているのです。場としてのあるいは建物としてのテンポラリースペースは
<伝説的>となるかもしれませんが、伝説という古典は<再生>するものと思う。
冒頭のいけばなの話もそこに繋がる。ただこれをジャンルの話にしては後退です。
場あるいは建物としての過去が状況として、闘い敗れたことも含めてそのこと
すべてが現在の存在証明なのです。今はまさに過去という領域をオーバーフエン
スしいく時なのです私には。
*北海道新聞夕刊平成18年1月19日
 季評美術2005年10月ー12月より

by kakiten | 2006-01-21 12:57 | Comments(0)


<< ワイルドサイドへと入ってきたー...      荷造り始めるーさらばと総括 >>