雪が降らない。雨が降る。道がぬかるんでいる。残氷が黒ずんで滑る。水溜りが
できている。やはり変。さっぽろの冬らしくない。夕刻帯広の人形作家伽井丹彌さ
んと美術家の梅田正則さん一行が来る。ここは初めて。”さっぽろ雪がないねえ”
ほぼ一年ぶりのさっぽろ来訪だがやはり去年より雪が少ないのだ。そういえば今
頃は前のスペースの退去が近く雪と氷柱が沢山あったなあ。多くの人が白樺と暗
い冬の雪に埋もれた建物と空気を写真に撮っていた。Mさんの傑作写真、今はブ
ラジルにいるTさんの写真を想いだす。先日車でたまたま以前のスペースの前を
通った。壁には紫の豆電球が電飾され白樺の木は枝を切られて白い胴体だけが
残っていた。もうあの腕を広げたような美しい姿はなくなっていた。紫の電飾も品が
良いものではない。あれではやはりいずれはマンシヨンに建て替えられるなあと感
じた。日常の人の眼というのは遠くからでも見ているものだ。風景として日常の中
で感受し愛しんでいる。いつだったか税務署の人が徴収の事で訪ねて来て言った
言葉がある。”一度入りたかったんですよ、仕事終えて帰り道にお宅の建物が見え
て木が見えると、ああ、円山北町に着いたんだあといつも思うんです。”そう話して
小1時間以上も税の話はそっちのけで店内を見たり作品を見たりしていた。そうい
う日常の他者の眼というのは決しておろそかにはできないものがある。無言の眼が
何かの時に雄弁に語りだすのだ。伽井さん達が来る前丸島均さんのご夫婦が見え
ていた。完成した看板やらてん刻された石の判の彫刻やらを嬉しそうに見ていた。
そのうちふっと見ると奥さんが野上さんの椅子の形をした作品にひょんと腰掛けて
いた。”これって竹馬みたいね”鳥が軽やかに木の枝に止まっているように座って
感想を言った。そうだよなあ、作品が喜んでいるようだった。一昨年晩秋の野上さ
んの椅子の作品は激しい苦悩と激情に満ちたものだ。今回の作品は穏やかな静
謐なものだから自然と座る事ができる。それも軽やかにちよっと。その行為を受け
入れるキヤパシテイが作品には自然にあるのだった。そしてその行為が作品への
正当な評価批評となっていると思った。普段の日常の仕草で表わされたなんのて
らいもない行為に真の批評が時として存する。日常の人の眼である。今回の作品
評はこの事で決まり、かな。
*野上裕之展「NU」-14日(日)まで。
AM11時-PM7時月曜休廊
札幌市北区北16条西5丁目1-8
テンポラリースペース