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テンポラリー通信

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2006年 12月 20日

風景と光景ー函となって溢れる(11)

吉増剛造さんの「石狩シーツ」の朗読CDを聞きながら12年前の「石狩河口/座
ル」展を思い起していた。河口近くの今はもうない山本旅館に4ヶ月弱滞在しでき
あがったこの長編詩には吉増さんの風景を咀嚼する音が入っている。最終行の
<女抗夫さん>のリフレーンに至るまで生まれた故郷の福生、横田基地が玄米の
殻のように、皮のように咀嚼され風景の実に至るのだ。奥多摩の織姫と石狩川の
奥の支流夕張の女抗夫との深い処での交流が実のようにそこにはある。石狩河口
の風景の咀嚼から詩人は自らの出生の場も玄米の皮の味のように発見している。
玄米の<玄>という字は草木の汁による色の重ねから出る黒い色を指すという。
その色の底には赤が残っているという。以前玄冬という字を調べて書いた事がある
。青、朱、白と四季の上につく色は光の濃淡からくる色の変化を表し同時に大地の
色も表わしているように思う。風景の風は大地から発し、光景の光は天空から発
している。景はもともと日の光を受けた輝きと翳の様子を表わす文字なのでその色
が景色となる。風景を咀嚼する。光景を咀嚼する。大地を、天空を咀嚼する。その
時殻を噛み、皮を噛み、実を噛む咀嚼のアンダーマイン、咀嚼の攪拌が味覚のよう
に新たな景色を獲得する。吉増さんの詩とその朗読にはそのプロセスのすべてが
あるようだ。私は都市化の脱穀のなかで暗渠となった小さな川に導かれるように川
の風景を咀嚼しその源流と石狩の海まで辿ってきた。そのプロセスの共鳴が詩人
との邂逅を産んだと思う。それから年月は過ぎたが久し振りに「石狩シーツ」の朗
読を聞きながらその風景を咀嚼し実に至るまでの行為は今も変わらず続いている
のを感じている。例えその風景が奄美・沖縄群島でありアイルランド島であろうと、
そこには風景の玄米を咀嚼している吉増剛造さんの景色がある。

*吉増剛造「石狩シーツ」草稿展ー22日(金)まで。
*岡和田直人展ー23日(土)24日(日)
*野上裕之展「NU」26日(火)-1月7日(日)まで。
          於テンポラリースペース
       札幌市北区北16条西5丁目1-8
*対話ー吉増剛造・工藤正廣ー22日(金)午後6時ー8時
          於北大遠友学舎・主催石塚出版局

by kakiten | 2006-12-20 11:58 | Comments(0)


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