人気ブログランキング |

テンポラリー通信

kakiten.exblog.jp
ブログトップ
2006年 12月 18日

玄米・玄冬・玄人ー函となって溢れる(9)

何をしたかったのか、どう生きようとしているのか自分の生き方がストンと分かる時
がある。それは美術とか音楽とか分野の問題以前の自分が生きている場への限り
ない愛着とその原風景を追求する為の闘いだという事である。それは玄米を咀嚼
するようにさっぽろを生きるということだ。精製され脱穀されたサッポロではなく、そ
こから距離をおき、探し、根のように確かめようとしている。Aさんが薬等の対処療
法ではなく黒いお米、黒いパンから始めた闘いは身体の基底からの生きる闘いだ
った。私は多分その玄米のようなさっぽろを探し求めそこを基底に生きようとしてい
る。祖父の時代の石狩国。さらにその先にある先人たちのイシカリ。その殻、皮、
実。その大地を身体のようにして自分が自分であること。さっぽろが玄米のように
さっぽろであること。その精神の大地の確認、手応えを都市の只中で実践すること
。拙くそう思うのだ。何故緑色の頭をした人たちに惹かれ励まされていたのか。そ
れはもっとも素直に樹木たちが大地に根ざした生き方を保っているからだ。漂白さ
れた都市の逆過程に玄米の黒があり、人それぞれのその過程で表現が開放し生
きていく人がいた。今展示中の吉増剛造の「石狩シーツ」もその過程で生まれた
作品である。ギヤラリーを函として溢れたこれまでの優れた作品、人との出会いも
そこを基底にあったのだ。今後それらを空いた時随時展示していきたいと思う。
昨夜の酒井博史ライブは多くの人が次々と押しかけ彼の30才誕生記念に相応し
い華やかなものだった。唄はラストの前の「ファイト!」が絶唱だった。多分涙ぐん
だ人が何人もいたことだろう。トリでいつも唄う「まほろば」はすでに声が涸れ沈ん
でいたほどだった。酒井さん自身の20代への深い惜別と現在の生き方そのもの
へのエールとなっていた。これもまた彼自身の生き方の発見その玄米的咀嚼の
賜物と思う。一年前初めて会った時は時代遅れのハンコ屋さんのとっちゃん坊や
みたいだった。この一年本当に本来の優れた素質が開花してきたと思う。そんな彼
を愛し応援する人たちが昨日は熱い拍手と沢山の贈り物を携えて来てくれたのだ。
そして彼の熱唱は充分にそれに応えていた。酒井さん、これも酒井さんの玄の夜
だったね。これからもともに、きちっとさっぽろを生きていこう。今あらためて誕生日
おめでとう!

*吉増剛造「石狩シーツ」草稿展ー22日まで。於テンポラリースペース
 札幌市北区北16条西5丁目1-8

by kakiten | 2006-12-18 12:27 | Comments(0)


<< 回線不通ー函となって溢れる(10)      風景の玄米ー函となって溢れる(8) >>