今日は定休日だが、出勤。小川さんの展示の仕上げと夕方来廊の及川さんの為
である。その他に詩人の高橋秀明氏と松尾真由美さんが来る。及川さんには田中
綾さんも会いにくるので、道新の新旧時評者が3人揃う事になる。というか、現代詩
と現代短歌の秀でた人たちで、及川さんもいい人たちと会えるえることになる。
小川さんの展示もみんなに見てもらえるのも嬉しい。ブログを立ち上げこうして
リアルタイムの出来事を記録し、発信するのはこの場所で現在おきている
立ち退きービル化との闘いその基底にあるー非等身大と等身大の価値観の
闘いを意味あるものとして伝えたいからである。2階建て木造の大きな窓の
ある、木々のみえる25年の存在は、解体にかかれば3日ともたないだろうが
その蓄積は白樺の大樹や窓の蔦と同じに3日でできるものではない。
文化も自然もその質において、25階と25年は決定的に異なる。自分の足で
25階に人は住むか?エレベーターという身体増幅装置を抜きにそれはない。
ここの2階の窓から紅葉し枯れた蔦越しに銀杏の黄色い葉を見ようとすれば
そこには、樹の等身大と人間の等身大が優しくクロスする。耳のライブも、眼
のライブー美術も、触れるライブー工芸作品も人間が織り成す等身大の表現
であり、その根っこのところを忘れて、数と量を目的化すれば文化も自然も
喪失してなにか牛や鶏の世界で起きている病的現象に近づくように思う。
止まれ!人間への警告と言う方が正確化も知れない。こうして新聞の面
ではないが、経済、社会、政治、文化と人間生活の諸相があるなら下に
<力>と付けた時一番大切な<文化力>が一番たよりないと思うのは
私だけだろうか。政治ー経済ー社会に拠ったパブリックアートという凭れかけは
自立した文化力ではない。もっと地味な当たり前の等身大の日常の蓄積
が、風景を創り、街を創り、人の出会いを生む。
きょうの休日の集まりは
そういうことでの出会いなのです。実は・・・。