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テンポラリー通信

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2006年 11月 19日

声という直接性ー冬のいのり(24)

人間が表現する様々な方法の中で声という手段が一番直接性を保っているような
気がする。グレングールドがあるいはモンクがピアノ演奏をしながら声を発てていた
のを最初に聞いた時は結構ショックだった。しかし慣れるとその声も演奏の一部と
として聞くようになった。歌手として声を出しているわけでは勿論無い。ある集中の
末に発した声なのである。演奏者のいわば究極のオーバーフエンスの故なのだ。
歌を唄う人の場合でもメロデイー、リズム、歌詞の調和だけならただ単に巧いで
済むが、いわゆる玄人芸人だが、ある集中の末に声が発せられる時声は最も
直接性を保ったアートになる。人間が見える。生き様が顕になる。そして聞くもの
にその事が直に及んでくる。ジャズでもビリーホリデイの声がそうだ。若い時の
可憐さ、人種差別への人としての怒り、晩年の体も声もボロボロになった時のそ
れでも唄うという生き方のひたむきさ。声には等身大の隠し様の無いその人の人
生が出る。技で心地よく聞かせる歌もいいのかもしれないが声はもっとその人の
生きる現場が顕われるのだ。その現場に人は共感し時に時代を見る。衣装として
の時代ではなく其処を超えた人としての同時代を感じる。バッハを演奏する例え
ばグールドはジョンルイスはバッハの時代の衣装を演奏している訳ではない。ピ
アノもなくジャズも無いバッハの時代をなぞってなんかいない。グレングールドが
演奏したのは自分の生きている今の、同時代のバッハなのだ。クラシックの伝統
的なアカデミズムの世界で<声>を発して演奏するなんていう事は禁忌の最た
る行為である。ピアノで弾く事すら疑問視された時敢えてピアノのペタルも改造し
自分のバッハ、自分と同時代のバッハを表現する為に究極にやはり<声>が発
せられたのだ。時にピアノという道具すら<声>は超えたのである。黒人でありジ
ャズマンであったジョンルイスにしてもクラシック音楽の楽聖バッハを演奏する
事自体厚い人種差別の中で闘いであったと思う。晩年ソロで暖かく憧れに満ち
たバッハの平均律を演奏しているジョンルイスを聞くとグールドとはまた違った
同時代のバッハを想うのである。愛しむようにメロデイがジャズのリズムへとい
つか変っていく。その時ハミングするように自然と何の躊躇いも無くやはり声が
発せられていた。<声>は個からその生きる現場から発せられる。決して<多
>を前提としては発しない。声の幹を喪って声を張り上げるのは騒音に等しい。
少なくとも表現の領域の<声>ではないのだ。宮廷音楽家だったバッハは旅
によく出ては酒場の民衆の音楽を聞いて作曲に採り入れていたという。当時の
宮廷音楽のアカデミズムに反していた為非難されていたとM君が教えてくれた
。きっとバッハもまた<声>を探していたのだ。声の現場に新旧はない。まして
<宮廷>に音楽の声の現場が無い事を誰よりも熟知していたのだ。

by kakiten | 2006-11-19 13:09 | Comments(0)


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