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テンポラリー通信

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2006年 11月 14日

やせる海ー冬のいのり(19)

秋が長いと思っていたらやはり長かった。日本ハムフアイターズの優勝と同じ44年
振りの事と新聞が伝えている。雪虫もやはり消えたとその少なさを伝えていた。そ
して今度は海がやせたと伝えている。世界の胃袋シーフード丸のみとある。特定
の種類を捕る為他は捨てる混獲が深刻と伝えている。売れ筋の魚450gの切り身
の為に捨てられる魚が7キロになるとの試算もあるという。ある種のグルメの為に
他の物が切り捨てられ殺戮されている。美食という<美>の為に非美は切り捨て
られる。この<美>とは味覚だけの問題だろうか。多くの人間が好むという多を前
提とした食のファシズムは<多>を<個>から切り離した社会の傲慢以外の何物
でもない。そして<多>を操るある構造的な意図をその時見抜く英知が少数であっ
ても必要なのだ。殖産興業の旗印の下文明開化を進めた明治の時代ゴッホやロダ
ン等の西洋の美を追い求め普及する為鹿鳴館に代表される欧化政策はそれ以前
の日本の固有の美を切り捨てひたすら政治経済の主導で<多>を目指してきた。
そんな近代の文化構造を今も引きずって表看板だけを変えただけの同じ構造の上
意下達の没個の状況が跋扈している。なにが高級魚か、ちよっと時を遡ればマグ
ロも秋刀魚も大衆的には少しも高級魚ではなかったのであり、浮世絵も少しも高
級美術ではなかったのである。政治や経済主導の官に導かれた近代の負債は今
もパブリックアートや街興しの名目で精算されてはいない。そうした<多>を最初
から目論んだアートに真の創造性が宿るはずも無いのだ。大衆とか世間とかに真
っ向から個として対峙して闘おうとしない民の側の孤立を放棄したエセ文化は浮世
絵を切り捨て特定の美術のみを推奨する近代の負の構造のままである。カン違い
しているのだ。特定の認可された<美>など初めから無いのだ。美の市民権は初
めから<民>の側にひっそりと存在していてそれは個の内側に名も無く埋もれて
いるのだ。その内なる静かな無名性を時代が何時か表に顕在化させる。その孤立
に耐えもせず既成の、時に官製の<多>におもねるような<美>食<美>術がト
ロール漁法のように世界を切り身にして痩せさせていく。文化は文化として政治力
や経済力に擦り寄らない文化力を食の世界も含めて何時から見失ってきたのだ
ろうか。<多>という資本主義的量数の論理の前に。それが大衆とか市民という
名であろうと個を喪失した量数から真の創造力も文化力も育つ筈がない。命の存
在は切り身ではないのだ。

by kakiten | 2006-11-14 12:31 | Comments(0)


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