突然の訃報だった。内海真治展最終日搬出も終わり中川潤さんと酒井博史さんと
がら~んとした会場でなんという事なく飲んでいた。内海さんも帰った後だった。中
川さんがふっと石田さんの所のストーブの修理に10日ほど前行ったが電話しても
出て来ずすっぽかされたという話をしたのだ。その何日か前ここで山内慶さん酒井
さん花田和治さん石田さんが集まって話し込んだ日があった。その時ストーブの修
理の話が石田さんから出て中川さんに頼もうかという事になったのだった。で結局
20日に中川さんが行くことになった訳だがその約束の日に近くから電話しても通じ
なかったと言う。そりゃおかしい頼んで約束の日に居ないなんて、という訳で私が
石田さんに電話をした。すると若い女性が電話口に出た。あのーとこちらの名前
を言うと”娘です”と言う。続いて”父は死にました。私も昨日東京から着いたばか
りです””え!何時ですか?”と言うと”20日か21日頃のようです。近くの友人が
お借りしたCDを返しに来たら電気が点いてるのに応答がなく変だと思ってなかに
入り発見したのが一昨日です。”と言う。吃驚だった。お通夜は11月2日午後6時
中央区北5条西22丁目北円山ホールと言う。告別式は3日午前10時同所で執り
行われる。10日余りも経って発見された訳だが多分中川さんが近くのコンビニか
ら電話した20日が死んだ直後だったのかも知れない。16日にここで会った時南
の沢の自宅まで車で送って行ったのは酒井さんでその後電話で話をしたのは中川
さんなのでここの関係に限れば共に最後の声と姿を見聞きしたのはこのふたりで
ある。そのふたりが揃っている時死の報告を受けた事になるのだ。そして何故か
南区の端に近い石田さんの住居なのに葬儀場は円山北町で行われるのである。
私には前の円山北町の空間で知り合った石田さんとのこの四年間がやはり円山
のゾーンと共にあったような不思議な因縁をその時感じたのである。名翻訳家にし
て心優しい人であった故人の知られざる躁と鬱の内面を最後に去来したものは何
だったのだろうか。今はただただ故人の冥福を祈るのみである。合掌。