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テンポラリー通信

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2006年 10月 14日

伽井丹彌の世界ー冬のいのり

昨年5月テンポラリースペースで開かれた伽井丹彌人形展「傀(くぐつ)」では、ほ
ぼ等身大の作家自身の身体を象った人形が一体だけ深紅の衣を纏い横たわって
いた。照明は一灯だけが作品に注がれ人形は手鏡を持っている。手鏡は映身(う
つしみ)であり自己を見詰める象徴である。それは現身(うつしみ)でもある。最終日
のパフオーマンスで作者はこの人形と同じ深紅の衣を着て登場し自らを象ったそ
の人形を解体したのだった。その行為は映像と音と舞踏を伴なって行われ言葉で
記されるほどおどろおどろしいものではない。むしろ行為を同時に映写する映像操
作の巧みさもあり万華鏡のような夢幻の世界の出来事のようだった。男という性別
の側から見てそれがあるエロテシズムと見る視線も当然あるのだがより身体性に
根ざす女性の側から見るともっと即物的な乾いた見方もあるのかと思う。ただ私は
伽井丹彌の人形作品が時に妊婦であったり少女であったりしてもその作品のほと
んどが裸身であったからそこに官能的なものを時に感じながらもより強く印象とし
て重なるものがあった。それはコソボやヴェトナムの裸の難民の少女の映像であ
る。衣装は戦火で焼かれ必死に逃げるその少女たちの裸身に官能という衣装は
ない。逆に裸身であるがゆえに戦争の非人間性と対比された極限の人間の凛とし
た身体性が存するのだ。その人間を破壊し解体するものを外在する非等身大の
力としてでなく自らが自らを解体する行為として表現した時作家はやはりある極限
にまで自己自身を突き詰めていったのだと思う。<あらゆる存在の姿は着物を着
た姿であり従って肉体は死んでも(着物を脱ぎ捨てても)魂は滅びない>(ポン・フ
チ「アイヌの死生観」)という魂の表現の試みとも、また<頭と手の間に機械が割
り込み分断してしまった>(アン・モロウ・リンドバーグ「海からの贈り物」)という機
械文明に対する視線の暗喩とも受け取ることができる。伽井丹彌が自らの身体を
通して解体という行為を一本の樹木のように葉という衣装を脱ぎ捨て肉体という衣
装を脱ぎ捨て表現しようとした世界は性別を超え人間の再生を最終のテーマとし
て提示したと思われる。そしてそのパフオーマンスは深紅の色で統一され緋色の
アナーキズム、紅葉の乱舞のように終わった。この後初めての個展が今帯広で
開かれている。彼女の「解体新書」の新たな第一章がいかなる言葉から始っている
のか。<機械による分断>というグローバリゼーシヨンの増幅、解体への視線か、
<魂>という死生観の根源への視線なのか改めて問うて見たい気がする。

*伽井丹彌展ー10月7日(土)‐22日(日)於帯広市弘文堂画廊(帯広西2条南9
           丁目6六花亭本店3階)    

by kakiten | 2006-10-14 12:13 | Comments(0)


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