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テンポラリー通信

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2006年 10月 12日

閉じるとき開くときー秋のはなし(25)

季節は冬に向け閉じようとしている。しかしこれから秋の深み。燃える色彩の氾濫
紅葉が訪れるだろう。足下も赤、見上げても赤。その赤も一様ではない。オレンジ
色から黒ずんだエンジ色まで多種多様な赤の競演になる。それも場所によって
千差万別なのだ。樹木の種類によっても違う。急に冷え込み雪が降った朝の山で
白い雪と紅葉が同時に見る事があった。そのコントラストが凄かった。季節の境目
が濃縮した風景だった。冬の真っ白で真っ青な雪山の世界になる前にも落ち葉の
朽ちた匂いが足下からさくさくと立ち昇る湿った空気の時間もある。根雪前の乾い
た紅葉もなく裸木だけの黒ずんだ世界もいい。光の濃淡<白秋>の時間だ。こう
した季節の境目に立つと人の感性は素直に敏感になる。真っ只中の高揚もいいが
ふたつの世界の変わり目の境界、界(さかい)に立つと両方のエキスが満ち溢れ
深いところで微かな緊張感と鋭敏さが増すように思うのだ。街と山の境、自然と社
会の境。人の表現行為にもそれと似た衝動があって人の内なる自然と社会という
衣装のようなものとの境で競り合うように溢れてくる。どっちかに偏ってもおかしく
やはりその狭間からしか生まれない。去年人形作家の伽井丹彌さんが自分の身
体を象った人形を解体するパフオーマンスをした事があった。身体という自然と衣
装を纏った社会的自然との狭間をさらに女性としてラデイカルに突き詰めたパフ
オーマンスだったと思う。そこに自虐はなかった。自らの裸体自体が社会的存在
であるという女性としての自覚も含めてその解体の行為はむしろすがすがしくさえ
あった。きっと彼女の心の季節の境目、界に立った行為だったと思う。そういえば
舞台も衣装も深い赤が主役だった。彼女自身が紅葉の行為をしたのかも知れない
。裸の王様とか馬子にも衣装とか衣装その物は社会的存在の象徴だが伽井さん
の人形は裸体がほとんどである。しかしそれは戦場写真でみる裸の難民の少女の
ようにそこには人間の極限の自然の裸体が凛としてあってそれはヌードという社会
的現象ではないのだ。伽井さんの行為(パフオーマンス)はそうした界(さかい)を
解体新書のようにルネッサンスした行為である。自らの身体の再生行為だったと思
う。作品行為としてそれを実行した作家の勇気は伽井さんならではの作家魂であっ
た。彼女は身体の社会的存在と自然としての存在の境目を表現したのだ。そして
それはなによりも自分自身の再生を賭けた生きる事の文字通り体当たりの表現
行為だったと今改めて思う。
私自身がこの約一年間を思うと社会的存在としての解体を経験してきた事になる
。足だけでさっぽろを深く漂流した裸一貫の存在であったから。そしてさっぽろの
身体を辿った。衣装としての都市ではなく身体としてのさっぽろの川跡を血脈のよ
うに歩いた。自然としてのさっぽろを都市との界(さかい)に透視しようとした。自分
の再生の為にである。自分のさっぽろの奪還の為にである。それは同時に自分の
さっぽろの復活を賭けた自分のさっぽろの解体行為でもあったのかも知れない。

by kakiten | 2006-10-12 12:55 | Comments(0)


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