<魂いななき>のような時間が振り返るようにあった昨日だった。ちよっと軽く総括
してしまった。今週はギヤラリーが空いて次回内海真治展まで内省的な時間。ヨッ
シーこと畑間さんが洞爺から戻って滞在中。ここは仕事場なのでやはりちよっとリ
ズムが狂う。東京の小山内裕二さんから連絡来る。メキシコから野上裕之さん帰
国し滞在中。昨年11月一緒に個展をした映像作家の石田尚志さん宅に行き大い
に盛り上がったと言う事だ。ここで知りあった人の縁で野上さんのメキシコ行きも
あった訳で紹介してくれた人も含めて石田夫妻と小山内さん野上さんと再会し話し
がわんわんと熱気を帯びた様子が窺えたのだ。生きた場所も年齢も性別も違う人
間がある時一緒に同じ方向を見詰めて一体となり語り合う。<これがコンテンポラ
リーという事じゃありませんか>と小山内さんが書いてよこした。とりあえず(テンポ
ラリー)というそれぞれがある方向性を持って同じ志を持つ。その心指す目線に(コ
ン)という接頭語を頂いた同時代性が垣間見えるのだ。そしてその熱い視線が渦巻
きのように膨らみ行動を起こす時がある。野上さんの帰国第一報は恐ろしい位個
展に向けて気合が入っていますというものだった。石田尚志さんや小山内さんに
会ってさらにその<CON>の冠は輝きを増しているのだろう。そのまま年末の個
展まで持続して欲しい。彼は人がいいからあまり付き合い的な集まりや便利屋的
な利用に引きずり込まれないようさっぽろにはしばらく帰らない方がいいと思う。ま
あ老婆心ですけどね。現代美術を標榜しながら相も変らず”近代”と言う名の美術
の城郭に依って若いものを駆り集めなんぞという動きもあるのだからと斜めに物を
見る私にはそう思えるのだ。ミックスじゃ駄目だ。なんでも掛け合わせればいいとい
うものじゃない。美術が街へ出るなんて発想も古い。箱入り息子みたいな事を言っ
て。始めから前提がずれている。普通にきちっと生きている人の確かな目をなめち
ゃいけない。明治の西洋コンプレックスの構造のままに大衆啓蒙的な臭いがプン
プンなのだ。明治以前の浮世絵だって歌舞伎だってみんな民から生まれている
のだ。明治の官は上意下達で上から文明開化を促進しその一環として<芸術>
もあったのだ。パブリックアートの原点みたいなものである。つまりパブリックワー
ク内アートなのだ。(公)共という官の政策なのだ。その構造のままに表向きの顔
だけを民にしている詐術を見抜かなければいけない。世の権威を借りて民をたぶ
らかすようなお芸術はいらない。