花が咲き誇る時間のために花のない何百倍もの時間があるように、この舟形の鉄
の器に湛えられた水も一滴の水滴となって落下するためにその一滴の何百倍もの
量がある。多分私たちの現在の記憶も水滴や花の時間と同じくらい潜在する時間
の量があるのだ。朝阿部さんの作品に水滴の調節、水の補給をしながらそんな事
を思った。今日で最終日。水滴のように人が訪れこの水滴のように時間を刻んだ。
その訪れるという時間の一滴の前にどれほどの深い大きな時間が潜在しているか
、そんな事を会期中何度か気付かされた。今日もマイミキシイで今城恵子さんの
文章を読みそう思った。仕事の合間に寄り慌しく帰ったかにみえた今城さんの的確
で溢れるような長文の日記は止まらない位続いて、さらにコメントの欄までさらに続
くのだ。ちよっと目頭熱くなった。新しい場所に初めて訪れしかも慌しく短い時間。
しかしこれまでの大木裕之さんの上映会、展覧会等濃い時間の蓄積がまさに一滴
の水滴のように溢れていた。初めての場所、初めて見る阿部守展。しかしそこには
この場に至る時間の記憶の蓄積それらが実際に訪れた時間の背後にぎっしりとあ
って、日記にはそれらが<初めて>を覆い尽くし新鮮に溢れているのだ。ある美術
作品に逢うための純粋培養的な真白い結界はここにはなく、多くの思い、人との出
会い、そこに至る場の記憶それらが全部いっぺんに凝縮され開かれて作品に逢っ
ているのだ。だから作品もまたその時間のひとつに繰り込まれ併存している。特殊
なものではなくそこにその時間に存在する親しい日常のように。阿部さん!あえて
一度もあなたの輝かしい履歴についてはここで記した事はありません。それはここ
であなたの図録を垣間見ればいい事です。作品はこの空間で形容詞抜きでここを
訪れる人たちの沢山の濃い記憶と共に存しました。そしてその人たちの多くの想い
によって理解されました。それは時に作家の意図を離れたものであったかも知れま
せんが、作品は間違いなくこの空間と時間の中心に存していました。M君の記憶、
川の記憶、場の記憶、それら訪れたそれぞれの人の固有の記憶の総体のように
存しました。潜在する膨大な時間の内から溢れる個々の記憶の一滴のように熱く
濃く存しました。最終日の朝のささやかなご報告です。
*阿部守展今日までam11時ーpm7時
*酒井博史ライブ「刻歌誓唱」10月4日pm7時~1000円
*及川恒平ライブ「夏のひかり秋のはなし」pm4時~3000円