なにかちよっとむきになってしまった。佐佐木方斎さんの事を取り上げてくれた
記者氏に公器としての新聞の役割と個としての使命感の狭間を突いたようだ。
私の私的な思いはあくまで佐佐木さんの現在にあるからそのズレもあったと思う
。その時現在というものの捉え方は、佐佐木さんを軸にして時間のフィールドが
数字の年数で輪切りにはできずトータルに現在という時間を掴まえて欲しかっ
たのだ。次回以降の記者氏の<80年代から現代へ、という視点での記事は今
後をご期待ください・・>という視点を一読者として待つことにする。
阿部守さんの作品に水滴が間断なく落下している。落下地点は茶褐色の錆が
日々刻々穿たれて、形成されている。一滴という現在の小さな連続が作品とい
う現実を創っている。すでに水分が消え錆だけと成った沖縄と英国の水。今も毎
日滴りながら新たな錆を創っているさっぽろの水。今週一杯の会期中ここで時間
を刻んでいる。一滴々々の現在、会期中創られていく現在。そのスパーンにもう
先程の答えがある。阿部さんの前の時間も含まれてこの場のここの現在がある。
sichihukuさんから久し振りにメールが来た。一度もちゃんと会った事のない村岸
さんの白樺をテーマに絵を描いたという。最近はイラストの仕事が多く久し振りに
描きたい気持ちだけで描けたと言う。モノクロームの画面に白樺が中央に浮んで
いる。周りには沢山の人が囲むように飛んでいる。実際に会った事だけが問題で
はない。心の現在、心寄り添う未知の現在もあるのだ。九州のアートスペースの
遠藤水城さんが来る。ここのカタログ4冊購入していく。九州ゆかりの作家山野真
悟さんと江上計太さんと吉増剛造さんの「午後7時の対話」等である。これは今貴
重ですよと言う。もう10年以上前のカタログだ。ここにも現在がある。振り返り、取
って返し今がある。阿部さんの作品をみていて当り前のことのように、むきになっ
た自分が少しだけ消えた。