水滴を受ける鉄の円盤の傍に再度焼成された漏斗状の物が添えられている。これ
が「火焔鉄」と題された火と鉄をテーマにした作品の一部であった。この場では滴り
落ちる水が主役だが、この仕事は火が主役である。そして水は滴り落ち下の熱せ
られた30cm程の凸部分で一瞬に蒸発してしまう2,3秒の行為として設定されて
いる。見る者はその水の現実をひとつのシーンのように立ち会うのだ。一方で英国
オックスフオードの水は鉄の大き目の皿の中で腐食し錆となって黄褐色の色にそ
の記憶を留めている。また沖縄の海水は小さ目の皿の上で緑青のような深い青緑
色の錆となってある。水滴となって動き一瞬にして熱に消える水は、ここの現在の
行為そのものとして鉄という素材に落下し触れつづけているのである。これを作家
のさっぽろへのオマージュあるいはノック、その確認のように感受する事も可能だ。
鉄その物の精錬に触れる行為とともに英国沖縄札幌の水の痕跡を展示した今回
の個展は、きっと阿部守の原風景のような展覧会なのだろうと思う。そしてそれを
見る私の内部ではまた別の感慨が沸いてくるのだ。滴り落ち、一瞬じゅっと音を立
て消える水滴に合掌のような鎮魂をも感じてしまうのだった。これは作家の意図と
は関係なくこの場所のトポスが保っているものだ。この事をやはり死んだM君に
近い何人かがふっと口にした。あの白樺の吊られた位置に水滴の位置もまた在っ
たからである。阿部守の作家としての原風景に関る三つの場所の水の痕跡そして
鉄の作家としての素材そのものの原行為に関る行為、水と焔。これらをあらためて
顕在化させることによって光のように見えてくる水焔のような現在が在るとすれば
札幌で行為した事の意味は、この水滴のノックのようにこれからも作家の内部で
問われ続けていくような気がする。
*阿部守展9月16日(土)‐30日(土)am11時-pm7時(月曜休廊)