近代と現代の界(さかい)目は、何処で顕れるのか。
それぞれの分野、それぞれの人生の節目のように
それは在る。
一方で時の垂れ流しのように、眼前の時に流される
まま過去へと束の間の現在を葬ってしまう今もある。
多くの都市風景が今そうである。
新しいビルが建立されると、それまでなにが在った
かもう思い出せないのが現在という時代である。
競争原理・一極集中主軸の現代社会、新旧・早い・
遅いの一元的価値観が支配しているかに思える。
新型コロナの世界的曼延速度は、皮肉にもこれらの
現代的条件がその速さ、新しさとして人間に牙を向いて
存在している。
地球の最小微生物ウイルスが最新・最速のグローバル
回路に乗って人類を覆う。
最後尾が最先端なのだ。
そして普段裏方の医療関係者の苦労、感染死者を葬る
火葬場の苦労、日々ゴミ収集に従事する人達へと関心
も寄せられている。
ここでも最後尾が最前列。
本当は何時だって、真実の最前列・最前線は、最前列に
して最後尾、最後尾にして最前列なのだ。
私たちの現代とは、一無名兵士の死の記憶をその始まりに
記した戦後詩「死んだ男」に始まる、と私は思う。
埋葬の日は、言葉もなく、
立会う者もなかった。
憤怒も、悲哀も、不平の軟弱な椅子もなかった。
空にむかって眼をあげ、
きみはただ重たい靴のなかに足をつっこんで静かに横たわったのだ。
3・11、今回の新型コロナの多くの死者たちもまた、立ち会う
者もなく<重たい靴のなか>に横たわったのだ。
戦争・災害・流行病と原因・時代形態は違えど、最前線の死者の在
り様は時を超えて現代を縁どっている。
明治の開国と同時に開いた近代というモダニズム。
その終焉を個の無名死の敗戦と共にむかえ、発せられた印象的な
言葉・・・<空にむかって眼をあげ>・・・。
この裸木のような垂直な視軸こそが、近代と現代を分かつ
杭のように私は感じている。
そして死者の言葉として顕わされた遺言。
「さよなら、太陽も海も信ずるに足りない」
人間社会を突き抜け、より根源的な自然そのものまで達する視線。
その視軸こそが、近代ではなく現代を撃っている。
八木伸子の80余歳、八木保次の20代にそれぞれ描いたふたり
の札幌風景、建物をしみじみと見ながら思う事は、こういう
風景も建物も私たちは決定的に喪失しつつ20代から80代まで
ただ急ぎ足で駆け抜けていく。
最後尾の無名戦士が、国家でもなく、敵国でもなく、自然そのもの
に対する深い目線を、<空にむかって>送っていた事に最前列の
現代、その始まりを思うのだ。
*八木保次・伸子展「札幌近代・浪漫」-5月10日まで。
午後1時ー7時。
テンポラリ―スペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き
tel/fax011-737-5503