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2020年 01月 19日

大野慶人さんと「この道」ー荒地(8)

舞踏家大野慶人さんが亡くなられた。
大野一雄さんと共に、舞踏を国際語にまで知らしめた
勝れた舞踏家だった。
思い起こせば慶人さんとの忘れ難い記憶がふたつある。
一つは初めてお会いした1991年9月大野一雄石狩河口
公演の前夜祭打ち上げの席。
私の席に近付いて慶人さんが問うたのだ。
何故私は石狩河口で踊るのか・・と。
東京生まれ横浜育ちの慶人さんには、父一雄さんに従い
石狩まで来たものの自分なりの納得が欲しかったのだろう。
私は札幌の見えない川暗渠に沈む界川から始まった自分の
札幌への熱い想いを語ったと思う。
解ったと言って翌日「石狩の鼻曲がり」公演で見事な舞踏を
披露してくれたのを今も忘れない。
もう一つの記憶は、晩年生まれ故郷札幌に住んでいた歌舞伎学の
権威早稲田名誉教授の郡司正勝先生の自宅を訪ねた時の事である。
この日は実は郡司先生が慶人さんの為に書き下ろした台本「ドリア
ングレイの最後の肖像」の2回目の打ち合わせの日だった。
しかし郡司先生の急死でちょうど初七日にあたり、慶人さんは
独りでお詣りに尋ねて来たのだ。
そして私に郡司先生の家まで案内を頼まれた。
郡司先生は私の母校早稲田の教授でもあり、大野一雄の良き
理解者でもあったのでふらっと画廊に尋ねて来る事もあって
行き来があったのだ。
琴似川の支流源流に近い山奥宮の森のご自宅でお詣りを済ませ
タクシーで当時円山に在った画廊に帰る途中、北一条通りで私は
ふっと慶人さんに語った。
<この通りが北原白秋の「この道」の元になった道ですよ・・・>
すると慶人さんの顔色が変わったのだ。
自分が父の背中を追って舞踏の道を志した時最初の独り舞台で
使った曲が「この道」だったと言う。
そして郡司先生の「ドリアングレイの最後の肖像」初演の時、
スペインから来た振付師ジヨアンに使う曲を相談したら、この
曲が良いよと推薦したのも「この道」だったという。

郡司先生は大野一雄とはまた違う大野慶人の魅力を見抜いていたに
相違ない。
生涯2度の独り舞踏の両方に「この道」が選ばれたのは単なる
偶然であろうか。

私は死者を水葬しその度に汽笛を鳴らし、水母の群れが追いかけてくる
そんな海を渡って復員した父大野一雄と、10歳にして初めて暮らした
慶人さんの長い父子の時代の溝を想う。
そして石狩河口公演後、稽古場でいつも使っていたというプレスリー
の曲「好きにならずにいられない」を父一雄の死後一雄の指人形を
付け踊っていた慶人さんを想う。
米国黒船により鎖国を解き国を近代へと開いた明治・大正の日本。
初めて西洋ダンスに触れ、その身体表現を舞踏として戦後独りで
世界に発信した大野一雄。
生涯人前で父と呼ぶ事のなかった大野慶人。
この二人の父子の孤独な闘いは、エルヴィスプレスリーーの曲を
通して初めて<親身な>親子の真の近代という回路を開いた気がする。

二人の近代と現代の亀裂を乗り越えた闘い。
舞踏という近代が保つ戦前・戦後という亀裂を、子としての大野慶人
は繋ぎ、貫き、生きたのだ。
そして、3度目の独り舞踏を石狩川の支流・源流の眠る札幌の地で実現
したかった、それが石狩河口の大野一雄、源流の大野慶人の「この道」
として、私には口惜しまれる。

              -北海道新聞夕刊1月24日掲載原文

*高臣大介ガラス展ー1月28日ー2月9日
 前期1月28日ー2月2日・器展
 後期2月4日―9日「あふれでる」インスタレーション

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by kakiten | 2020-01-19 18:09 | Comments(0)


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