冬が来た。
光が空から降ってくる。
地上の雪に反射して、上から下から白い光が世界を包む。
寒さに身体は震えながらも、眼は白銀を受け止めている。
宮城県石巻の夏、太陽と海の浜を想い出す。
Ki君とKA君が防潮堤を越え煌めく陽光の海を泳いだ記憶が
夢のようだ。
午後の太陽が真下の海面に光のランドを浮かべ、そこから
光の道が岸辺へと伸びて来た。
三人は防潮堤の石段に坐り、光の道の延びる海と太陽に向か
ってKA君が三線を弾き唄う。
私とKi君は海と太陽に向かい手拍子を打ち、後ろでМさんは
踊り続けていた。
白い白銀の大地。
煌めく光の海。
光の記憶。
ふたつの季節の海と太陽が重なる。
そして、蘇る。
いつも季節は秋だった、昨日も今日も、
「淋しさの中に落ち葉が降る」
その声は人影へ、そして街へ
黒い鉛の道を歩みつづけてきたのだ。
埋葬の日は、言葉もなく
立会う者もなかった。
憤激も、悲哀も、不平の柔弱な椅子もなかった。
空にむかって眼をあげ
きみはただ重たい靴のなかに足をつっこんで静かに横たわったのだ。
「さよなら、海も太陽も信ずるに足りない」
Мよ、地下に眠るМよ、
きみの胸の傷口は今でもまだ痛むか。
またしても私には、鮎川信夫の「死んだ男」の最終行が浮かんで来る。
私達の現在の起点、戦後近代の基点の「さよなら、・・・」。
それは1960年代岸上大作の「意思表示」の<断絶・しゅったつ>
、奥浩平の<さようならと総括>へと私の内部で木霊する「さよなら」。
鮎川信夫が書き記した<黒い鉛の道><重たい靴のなか>。
<さよなら>の戦後近代の出発点を、私は3.11の牡鹿半島・鮎川
で深く感受していたのだ。
「黒い鉛の道」は、「重たい靴の中」は、国土強靭化計画の黒い、重た
い防潮堤のように渚を塞ぎ「海と太陽」を遮っていた。
私たちの本当の<さよなら>、その胸の傷口は今も顕在化してはいない・・。
テンポラリ―スペース札幌市北区北16条西5丁目1-8斜め通り西向き